第71回 長野節分会 (2025年は終了しました)
祈りの記憶を辿る旅
長野駅に降り立つと、人のざわめきのなかに、聞き覚えのない囁きが混じっている気がして立ち止まった。
声にならない声で、わたしに語りかけるのは、善光寺に向かって祈り続ける如是姫像。
彼女が見つめている先の景色をこの目で見たくなって、わたしはゆっくり歩き出す。
かるかや山西光寺は、本堂の軒先から、結縁紐が長く伸びている。風が吹くたび、五色の紐がたゆたい、やわらかく揺れる。その紐は、過去から現在へと延びて、触れる者の願いを阿弥陀仏へと導くと言われている。
紐にそっと手を伸ばすと、指にからまり、遠い彼方へとわたしを連れていってしまう。
この場所で、かつて生きていて、何かを感じながら、祈りつづけた人々の想いが、現在を生きているわたしの体に流れ込んでくる。
わたしは、自分がどこにいるのか一瞬わからなくなって、確かめるように地面を踏みしめて、またゆっくり歩きだす。
十念寺観音堂の床下に埋まっていたという歌碑は、夢のお告げで見つかったという。200年以上も、誰にも見つからずに埋められていたという歌碑は長い眠りの果てに、ふたたびこの世の光を浴びた。
石に刻まれた文字は風化し、ところどころ判読が難しい。それでも、誰かの手によって詠まれたその言葉は、石の中にたしかに息づいている。
指先でそっとなぞると、石の冷たさの奥に、遠い記憶の温もりが残されているように感じた。
善光寺領にまつわる伝説はたくさんある。その物語のひとつひとつに、この地でたしかに人が生きて、何かを見て、そこに込められた想いを残して伝えようとした痕跡が感じられる。
長い年月のなかで、形を変えながら、ここまで受け継がれてきた物語たちは一体何を見てきたのだろう。
逸話だけが残り、もうこの世からは消えてしまったり、朽ちてしまったりしたものもある。
形があるものは、必ずいつか崩れて、亡くなる。
だけど、物語は、誰かの記憶のなかで生き続ける。
善光寺の参道に入ると、橋の中心に大きな穴が空いている。仏が自分の存在を証明するために、平らな橋にぽっかり穴をあけてしまったらしい。
この穴は、過去への入り口になっている。うっかり気を抜いたら、吸い込まれて、どの時代へ連れていかれるかわからない。わたしは指の先に、誰かの意思のような引力を感じて、すぐに手を引っ込めた。
無数の魂とすれ違う。生きているものと、かつて生きていたもの。目に見えなくても、たしかにそこにあるもの。
果てしない時間のなかで、わたしたちは出会い、挨拶を交わし、また別れる。
死者の魂が腰かけると言われる石は、生きているわたしの形に合わず、もう少しだけわたしはこちらの世界で生きねばならない。
ふらふらと浮遊するように、ただ歩いてみる。
辿り着いた先にはいつだって何があるのかわからない。
だから、歩いてみるのでしょう。
過去と未来は、ここでたしかに交差している。
今を生きているわたしと、かつて生きた者たちの記憶が今まさに溶けあっている。
時空を越えることなんて、実はたやすく、蜃気楼のような一瞬をわたしは生きる。
文:星野文月 撮影:内山温那覇 イラスト:佐藤妃七子
〈著者略歴〉
星野文月(ほしの・ふづき)
作家・文筆家。1993年生まれ、蟹座。長野県松本市在住。著書に『私の証明』、『プールの底から月を見る』、『取るに足らない大事なこと』(共著)などがある。現在は、松本市の書店兼喫茶「栞日」にて、選書やイベントの企画を行う。
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