若槻里城跡
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読みは「わかつきさとじょう」跡。北方の三登山(みとやま)中腹にある若槻山城に対応した居館で、 12世紀後半(鎌倉時代初期)に山城とともに若槻頼隆[よりたか](源義家の孫)によって築城されたと伝えられている。
戦国期には、若槻城は高梨氏の要害であったといわれ、弘治3年(1557)の上野原(うわのはら)の戦いなど、上杉・武田両軍による攻防戦はこのあたりでも繰り広げられた。
若槻里城跡
若槻里城跡の碑
周囲に堀を巡らした城跡は、昭和初年(1926)に用水池となり、一部は埋められ水田となった。遺構の多くは消滅したが、昭和40年(1965)頃には若槻団地が造成され、里城池と公園には往時の面影を残している。
善光寺平に残る城館跡の中で、山城と一対になって残されたものは他に例がなく、貴重な史跡となっている。
鎌倉時代初期、幕府御家人源頼隆が地頭職となってこの城を築いて居住し、地名を名乗り姓にした。城主は代々若槻氏であったが、永正16年(1519)5月、村上顕国に攻められ、若槻織部允広隆[わかつきおりべのじょうひろたか]は、青柳伊勢守を頼って筑摩郡に逃れた。その後高梨氏が領有し、城主になった。城跡は今は住宅地に位置するため、遺構の大部分は失われているが、堀の一部は「里城ノ池」とよばれ、灌漑用水池となっている。団地北公園には「若槻里城跡」の標柱が建てられている。
本郭は東西約126m・南北約180m、面積約2.3haの四方を幅約18mの堀をめぐらし、狭いところでも約9m余あった(『長野県町村誌』)。里ノ城池となっているのは、西北の一部で、二方は埋め立てられて、団地造成までは本郭跡とともに耕地になっていた。里城ノ池は東西約83m・南北約25m、面積約192a、太郎堰に通じ、東条区の灌漑用水となっている。
弘治3年(1557)2月、葛山城(かつらやまじょう)が落城すると若槻里城・髻山城(もとどりやまじょう)も武田氏が占拠したが、高梨政頼は長尾景虎(上杉謙信)の援軍をうけて両城を奪還した。景虎は髻山城からいったん飯山城に入り、市河藤若(いちかわ・とうじゃく/とうわか)の拠る野沢城を攻めている。また8月には上野原で武田、上杉両軍が戦った。第3次川中島の戦い、すなわち上野の戦いである。葛山落城で大倉城主島津月下斎(しまづ・げっかさい)、芋川城主芋川親正(いもかわ・ちかまさ)は武田に降った。若槻里城は永禄7年(1564)川中島の戦いが終結するまでは、武田軍と上杉軍の争奪がくり返された。