若槻山城跡
カテゴリー:上杉軍関連 城・館 | ◇アクセス
善光寺の北東、三登山[みとやま]中腹部に位置し、上杉謙信によって整備されたという山城。読みは、「わかつきやまじょう」跡。
麓の若槻里城の詰城として、鎌倉時代初期、この地に移った若槻氏を名のる源頼隆が築いたと伝えられる。室町時代には高井郡の高梨氏が支配。戦国時代には甲越による争奪戦が繰り広げられた。山城はその後廃城になったが、主郭などの規模は大きく、典型的な山城の遺構がそのまま残されている。主郭から北方には番所[ばんどころ]があり、山背よりの備えと狼煙台に利用されたものとも考えられている。
なお、里城と山城との中ほどにある堂沢出城跡は、平成15年(2003)、地元の若槻小学校の生徒が発見した遺構。城跡へは整備された遊歩道が続いている。
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若槻山城遠景
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若槻山城跡登山口
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主郭跡を見上げる
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主郭跡
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若槻山城跡の碑
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主郭より長野市街地を望む
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堀切跡
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主郭北側の石積み跡
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若槻山城番所跡
若槻山城は三登山[みとやま]城ともいう。若槻里城と一体化した山城で、長野市内でも最大規模の山城である。三登山支峰の城の峰(標高676m)にあり、遺構もよく残っている。この山城は里城とともに鎌倉初期に若槻氏により構築された。それが戦国時代に上杉方の拠点として修築された。本郭は東西23m・南北43m、土塁や空堀もよく残り、階段状に続く外郭は約30ある。尾根を北に500m行ったところに巨石を配した「番所」を置き、見張り所としていた。
弘治3年(1557)の上野原[うわのはら]の戦いは、若槻山城と髻山城の間で行われたと伝えられている。この戦いの大将は、上杉方は長尾政景(謙信の従兄)、武田方は牧之島城主の馬場美濃守信春といわれる。この戦いに先立つ6月、飯山在城の上杉謙信は、武田方の市河藤若[いちかわとうわか/とうじゃく]の拠る野沢城を攻めている。
若槻里城跡は、若槻団地に位置するために遺構の多くは消滅している。堀の一部は東条耕地の灌漑用水池として使われている。団地北公園には「若槻里城跡」の標柱がある。