手子塚城跡
読みは「てごづかじょう」跡。長野市豊野町蟹沢。戦国時代、長沼と鳥居川流域を領有した島津氏による大倉城の出城といわれる。千曲川左岸の小丘上にあり、直下に古くからの渡し場があった。千曲川対岸の高梨氏勢力に備え、防御拠点として築いた城といわれる。
第3次川中島の戦いで、葛山(かつらやま)城を攻略し、武田軍は北信濃に着々と手中に治めていった。その猛進撃により、弘治3年(1557)、島津月下斎[しまづげっかさい]は長沼城から大倉城へ退却したが、その際にも手子塚城が利用されたと考えられる。
江戸時代、主郭には諏訪社が建てられ、文化年間(1804~17)の社殿修復の際に地中から古墳の石室の天井石と推定される大石が発見されている。