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史跡紹介

霜台城跡

カテゴリー:武田軍関連 城・館 | ◇アクセス

 読みは「そうたいじょう」跡。若穂保科須釜。
 武田信玄に仕え、高遠城主となった保科弾正忠正俊(ほしな だんじょうのじょう※1 まさとし)は「槍弾正」の異名をもつが、霜台(そうたい)とは「弾正忠」のことであり、この地を領した保科氏から城名がついたといわれる。保科氏の館があった広徳寺の裏山、太郎山西方支脈の窪山頂上にあり、延徳年間(1489~1492)保科弾正忠正利(まさとし※2)によって築城されたと伝えられる。

 霜台城直下の若穂保科地区は中世、太郎山山麓を流れる保科川に沿って鎌倉から善光寺へ通じる保科道(大笹道)があり、善光寺平の出口にあたる要地であった。

※1 弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
※2 前出、※1の正俊とは別人。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 霜台城は諏訪神(すわみわ)系の高井保科(たかいほしな)氏が、中世に窪山(標高約800m)の山頂に保科道の押さえとして築構した。加増(かぞう)の西山頂に加増城、和田東山古墳群の下方に和田東山城跡がある。これらの城砦は西方の大室氏に対する備えとして築構されている。

 霜台城跡は本丸・二の丸・三の丸跡と思われるところは方形に近い段郭になっており、堀切り・土居跡も残っている。石垣は大部分が崩れて原形をとどめていない。緩傾斜地には幾つかの曲馬場と思われる跡もみられる。左右の側面は絶壁に近い急斜面で、登ることは困難である。最上段の本丸跡は、ほぼ台形状で、長さ40m・下底30m・上底15mほどである。本丸と二の丸の間に幅7m・深さ2.6m大堀切があり、土居跡もみられ、小出側には水の手がある。付近に城窪・弾正岩・敵見岩の小名(こな)が残る。

 城は延徳年間(1489~92)、保科弾正忠正利(正俊)が築城したという。長享年間(1487~89)、村上義清の祖父頼清(顕国)に攻められ、正利・正直(正則)父子は分領伊那高遠へ逃れ、次男左近将監[さこんのしょうげん]は村上氏に降り、保科を領した。(出典:「上高井郡誌」大正3年4月1日発行 上高井教育会編)

 川中島の戦いのころは、保科の保科正知[まさとも]、支郷河田に保科長経[ながつね]がおり、武田氏に従っていたが、武田氏滅亡後は上杉氏に従った。文禄3年(1594)には保科豊後守佐左衛門(すけざえもん/権左衛門とも)が稲荷山留守役で540石であった。子孫は上杉藩士となった。

 伊那郡高遠に逃れた保科正利は武田氏に属し、高遠頼継[たかとお よりつぐ]が信玄に滅ぼされると高遠城代となった。川中島の戦いでは120騎の侍大将として出陣。武田家滅亡後、子の正直[まさなお]は徳川家康に属し、下総多胡(千葉県香取郡多古町)で1万石を与えられ、徳川大名となった。子の正光[まさみつ]の代には高遠3万石城主となり、徳川秀忠の第9子正之[まさゆき]を7才のとき養子にした。正光はのち、会津に転封し、松平姓を与えられた。正光の弟正貞[まさただ]は上総飯野藩(千葉県富津市飯野)2万石の藩主となった。

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