馬場ヶ瀬
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永禄4年(1561)、八幡原の激戦で、越軍の主力部隊からはぐれた上杉謙信が追い迫る武田の軍勢から逃れて渡ったとされる千曲川の瀬。海津城から八幡原に通じる「広瀬」の渡しから3kmほど下流に位置する。
上流方向を望む(橋は更埴橋)
『甲越信戦録』によると、このとき謙信に付き従った3名の従者のうち、宇野左馬之介[うのさまのすけ]と和田兵部[わだひょうぶ]は主君が無事逃れられるように川岸に踏みとどまって敵と戦い討ち果てた。対岸に逃れた謙信は二人の最後に心を痛めながら後ろ髪を引かれる思いでもう一人の従者和田喜兵衛とともに越後に逃れたと語っている。
江戸時代、馬場ヶ瀬付近に、小島田村下組から千曲川の右岸同組釜屋・荒屋(松代町小島田)、牧島村の作場に行く牧島野渡し※があった。
※補足…当時、村営の渡しについては「●●『野』渡し」との呼び名であった。野=村営、の意味。
永禄4年(1561)9月10日の八幡原で武田信玄を討ちもらした上杉謙信は、越後の主力部隊とはぐれてしまった。従う者は和田喜兵衛・宇野左馬助・和田兵部の3名。犀川を渡って善光寺へと思ったが、犀川の川辺は武田勢で固められ、渡ることは不可能であった。
そこで、川中島に出馬したときの道、「布野の渡し」を越えて越後に引き上げることにした。夕日が茶臼山に傾きかけた午後5時ころ、謙信と喜兵衛が千曲川の馬場ヶ瀬を渡ったこのとき、武田の軍勢は「よき敵逃がさじ」と、謙信とも知らず大勢で攻め寄せた。
宇野左馬助、和田兵部の両人は、川岸に踏み留まり、懸命に戦ったが、和田兵部は力尽きて討死した。宇野は太刀を振り回して奮戦したが、深傷を負った。倒れそうになる体を太刀で支え、この深傷ではかえって主君の足手まといと、千曲川に身を投じて自害した。対岸でこれを見た謙信は、深く嘆いて、その場を立ち去りかねていた。和田喜兵衛は、主君の悲嘆にくれている様子を見て、
「家臣という者は、主君のために討ち死にすることは、常の習い。2人の死を無になされるな。早くこの場を立ち退きなされ」
と諌めたので、謙信は後ろ髪の引かれる思いで、この場を立ち去った(『甲越信戦録』)。馬場ヶ瀬には、このように川中島を引き上げる謙信主従の悲哀が秘められている。
馬場ヶ瀬の約1km下流には、善光寺方面から中野、飯山方面に行く飯山街道や保科街道を経て、大笹(群馬県吾妻郡嬬恋村)から関東方面に行く「関崎の渡し」があった。