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境福寺

カテゴリー:武田軍関連 神社・寺 | ◇アクセス


境福寺


信玄公ゆかりの井戸跡

 読みは「きょうふくじ」。川中島合戦のころは小さな庵で、武田信玄が水を求めて立ち寄った際に「境福寺」と命名し、弘治2年(1556)上人を迎えて勧請(かんじょう)したと伝えられている。本堂内に掲げられた山額※は、信玄直筆をもとにして作られたものといわれる。

 本堂前庭には信玄や将兵たちが喉を潤したと伝わる「信玄憩いの井戸」の跡がある。井戸は泉のように湧き出し、干上がったことはなく、近村からも水を請いに来たほどだったという。浄土宗法蔵寺(ほうぞうじ・川中島町戸部)の末寺であり、現在住職は不在。地域ならびに寺にゆかりのある人々によって守られている。

※寺名が書かれた額。山[さん]は寺院の意。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 永禄4年(1561)の川中島の戦いで兵火により焼失し、武田信玄が再建したという。堂内に掲額されている信玄揮毫(きごう/筆で書いた直筆の字)と伝える山額について、徳本行者(江戸時代後期の僧)の布教日記『応請攝化日鑑(おうじょうせっかにっかん)』の文化13年(1816)5月7日の項に「境村境福寺はありふれた庵室であったが、信玄公が休息されて、境村境福寺とお書きになられた。それより寺となった」とある。

 境福寺は広田沢堰を挟んで松代領藤牧村に接している。北方500m程のところに古戦場史跡「幕張の杉」がある。永禄4年(1561)の川中島の激戦のとき、氷鉋(ひがの)郷の土豪青木次左衛門が、戸部・今井・中氷鉋・上氷鉋・今里・岡田の西部六ヶ村の代表を伴い、川中島西部に戦火が及ばないことを信玄、謙信双方へ懇願した。この申し入れを受諾して、武田、上杉両軍の停戦ラインとしたのが「幕張りの杉」である。境福寺と「幕張りの杉」を結んだ線の西側に六ヶ村がある。これらの村は、上田藩の飛び地領であった。

 永禄4年(1561)の甲越の激戦で兵火にあい、焼失したと伝える寺には、境福寺のほかに、善導寺・浄真寺(稲里町)、常然寺(小島田町)、常磐寺(戸部)、常松庵(篠ノ井西寺尾)などがある(『県町村誌』)。いずれも激戦場になった地にある。その後、浄真寺は西寺尾に移転再建され、常磐寺は廃絶した。

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