明桂寺
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読みは「みょうけいじ」。犀川の南岸、軍事上の要地であった綱島小中島に居城した豪族・綱島氏が開基とされる曹洞宗の寺院。川中島の戦いのころ、綱島氏は武田方に属した。永正12年(1515)若穂綿内(わたうち)の妙法寺二世宗察を迎え、曹洞宗明桂寺を建立した。綱島城とともに長野大橋付近にあったとされるが、元文2年(1737)の犀川大洪水で流失したため、現在の地に移転・再建された。
寺伝では、弘化4年(1847)の善光寺大地震による犀川大洪水でも被災したが、逃げ遅れた人々は庫裏の二階や境内の松の木に登って難を逃れたという。この松は「お助け松」とも呼ばれ人々から親しまれてきたが、平成8年(1996)に伐採された。
また、天明3年(1783)浅間山の噴火によって農作物が大凶作となった天明の大飢饉で亡くなった人々を供養した宝篋印塔(ほうきょういんとう)も境内に建立されている。
印塔
綱島氏は藤原秀郷[ひでさと](俵藤太[たわら とうた])の末裔という。代々村上氏に属した。綱島豊後守勝宣[かつのぶ]は、永享12年(1440)村上頼国[よりくに]に従い、結城合戦で陣没した。また、勝房[かつふさ]は文明9年(1477)千田氏・川井氏に攻められ、城を枕に自害した。その後、勝房の子内蔵丞[くらのじょう]は真島氏に頼り、川井氏を滅ぼして旧領を復し、永正12年(1515)、先祖の菩提を弔うため、小中島(こなかじま・長野市真島町)に明桂寺を建立して自ら開基となった。
内蔵丞の嫡子豊後守保品[やすただ](頼繁[よりしげ])は、天文22年(1553)8月、武田信玄に攻められ、村上義清とともに長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後に逃れた。その後、保品は上杉軍信州先方衆として、川中島の戦いに参陣し、武名をあげた。上杉景勝が天正10年(1582)6月、北信四郡(埴科・更級・高井・水内)を統治すると、保品は綱島城に復帰し、荒砥城番を勤めた。上杉家の『文禄三年定納員数目録』に「四十四人七百三十六石三斗一升八合 貝津留守役 綱島豊後守」とある。
なお、明桂寺の末寺、綱島の来福院には、永禄4年(1561)8月に上杉軍の信州先方衆として川中島に出陣した豊後守保品が、同月18日、戦勝祈願のため奉納したと伝える毘沙門天像が安置されている。この像の背後に「永禄四辛酉年八月十八日 綱島豊後守保品奉之」の墨書がある。