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史跡紹介

布野の渡し

カテゴリー:上杉軍関連 | ◇アクセス

 読みは「ふののわたし」。永禄4年(1561)8月14日、1万3千の兵を引き連れ、川中島へと出馬した上杉謙信は、兵糧部隊を善光寺横山城に向かわせ、自らは本隊を率いて神代(長野市豊野町)からこの渡しを渡って大室(長野市松代町)に至り、可候峠[そろべくとうげ]を越えて妻女山に本陣を置いたという。

 9月10日の激戦の後には、馬場ヶ瀬を渡って飯山街道に出て、この渡しを渡って帰国しようとしたが、落人狩りの野武士を警戒して山伝いに保科から高山郷へと向かったと『甲越信戦録』には描かれている。


下流方向を望む(橋は屋島橋)

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 永禄4年(1561)8月14日、1万3千人の将兵を引き連れ、春日山城を出陣した上杉軍は、牟礼から直江山城守兼続※の率いる小荷駄隊は善光寺に、謙信率いる1万の本隊は赤沼、長沼(長野市長沼)を経て、布野の渡しを渡って飯山街道に出て、大室(松代町大室)から可候峠(そろべくとうげ)を越えて妻女山に本陣を構えた(『甲越信戦録』)。9月10日の八幡原の激戦後、謙信は、部下将兵の待つ善光寺へと犀川を渡ろうとした。
※補足…甲越信戦録では「直江山城守兼続」と記されているが、その他の資料では「直江大和守実綱」の説もある。

 犀川の岸辺に夕風になびく風林火山の旗々…。謙信は犀川渡河の不可能を知り、千曲川の馬場ヶ瀬を渡って、飯山街道に出て、この渡し(布野の渡し)を渡って帰国しようとした。しかし、川田宿には篝火を焚いて、落人狩りの野武士らが大勢たむろしていた。謙信、和田喜兵衛主従2人は、難を避け、井上氏や高梨氏の影響が残る地を山伝いに 保科(若穂保科)から高山郷へと向かった。このとき主従が逃れた道を「謙信道」と今に伝えている。

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