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姫塚

カテゴリー:上杉軍関連 供養塔・墓 | ◇アクセス

 永禄4年(1561)の川中島の戦いで、大乱戦の末、上杉軍の兵が多数討ち死にしたといわれるあたりに鎮魂のために建てられた塚。上杉軍は犀川を越えて善光寺横山城へと撤退しようとしたが、武田軍に阻まれ、犀川の市村の渡しあたりで多くの兵が討ち果てた。

 塚は、信州大学工学部の北西側にある。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 「姫塚」は信大工学部北西、市道に沿った墓地内にある。塚上に明応5年(1496)と印刻された高さ68cmの古い五輪塔がある。この市道を南に行くと犀川の堤防に出る。この辺りの地籍を「舟渡場」といい、この地籍に「桝方島[ますかたじま]」という小字もある。いずれも市村の渡しに由来する地名である。

 妻女山攻撃の武田軍の到来で、上杉方は市村の渡しに向かって北走した。しかし、追いすがる武田軍によって、市村の渡し場付近では、多くの甲越の兵士が討死した。

 『甲陽軍鑑』に、
「旗本の諸勢は、越後への道を断ち切って構えていたので、敵兵は攻撃を逃れることは困難であった。輝虎(謙信)方の3分の2は、旗本組の右手に回って敗走した。左手に逃げるものは少ない。討ち取ろうとする味方は、皆 右手に逃げる敵を追っていった」
とある。右手は「小市の渡し」、左手は「丹波島の渡し」である。市村の渡し場付近で多くの兵士が討ち死にしたが、姫塚には川中島古戦場にあるような「首塚」伝承はない。

 伝承によれば、熊谷直実の二女玉鶴姫が、侍女を伴い父を尋ねて善光寺参詣の途中、綱島の里で病にかかり、犀川を渡ることができなかった。はるか善光寺を伏し拝んだところ、白髪の老人が現れた。その老人の手引きで犀川を渡ることができたが、病は日に重くなるばかりであった。姫は文治4年(1188)7月、父に逢うこともなくこの地で没した。里人は玉鶴姫の死を哀れんで塚を築き、手厚く葬った。翌年直実がこの地に来て、娘の死を知り、娘の菩提を願い、傍らに仏導寺を開いたと伝えている。

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