保科氏館跡
場所は長野市若穂保科。「槍弾正」と称された高遠城主・保科弾正忠正俊(ほしな だんじょうのじょう※ まさとし)は、武田方の信濃先方衆騎馬120騎持ちの侍大将を務め、武田家滅亡後は徳川家康に仕えた。その保科氏発祥の地にある円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利を開基とし、延徳元年(1489)に開創された曹洞宗の寺院。現在の広徳寺のあたりに保科氏の館があったといわれ、永正10年(1513)村上氏との戦いで消失。焼け残った館の裏門が現在の寺の総門となっているという。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
弁才堂に祀られる八臂弁才天(はっぴべんざいてん)は、武田信玄の守護神と伝えられ、川中島の戦いの際には領土安穏を祈願し、広徳寺に安置したと伝わる。弁才天は、音楽や智恵、財福の神で、七福神の一人としても信仰される。八臂像は八つの手にそれぞれの明徳を備えている。広徳寺の裏山には、霜台(そうたい)城跡があり、かつての城下を静かに見おろしている。