塩田城跡
カテゴリー:武田軍関連 城・館 | ◇アクセス
上田市塩田平の南方、独鈷[どっこ/とっこ]山麓に築かれた城。鎌倉文化を花開かせた北条義政(1242-1282)の居城とされ、戦国期は、村上義清が福沢氏をおいて東信濃を統治させていた。
天文22年(1553)4月、武田晴信(信玄)の攻撃によって葛尾[かつらお]城を追われた義清は、上杉謙信を頼り、12年にわたる川中島の戦いは火ぶたを切る。謙信の援軍によって一時は所領を取り戻して葛尾城から塩田城に拠点を構えた義清だったが、再び信玄に追撃され、越後の謙信のもとへと逃れた。
塩田城を制した武田信玄は、この城を川中島進軍の拠点として飯富虎昌[おぶとらまさ]ら重臣を常駐させた。弘治3年(1557)、上杉軍に攻められた野沢(下高井郡野沢温泉村)の市河藤若[いちかわ・とうじゃく/とうわか]に宛て、信玄が「山本菅助」を遣わした書状(「市河文書」)にも、塩田在城の兵士を市河氏のもとへ援軍に送ろうとした旨が記されている。
塩田城は独鈷山(とっこさん・どっこさん)の支脈、弘法山から流れる神戸川と御前川に挟まれた南北700m、北端東西160m、中央の最広部東西180mで、およそ600mにわたって、20数段に及ぶ段郭が階段状に残る。さらに、段郭は、神戸川を越えて、右岸の前山寺(ぜんざんじ)南方から、御前沢(ごぜんさわ)を越えて、西方の竜光院(りゅうこういん)東側山麓にまで及ぶ。城跡の北方に空濠跡が残る。城の主要部分は、鎌倉時代から「御前(ごぜん)」と呼ばれ、全体からきわめて広大な遺構で、県史跡に指定されている。
室町初期、塩田地方を領有した村上氏が、代官福沢氏を塩田城主として以来、この城は塩田地方の村上支配の拠点となった。天文22年(1553)8月の『高白斎記』に、「五日向塩田御動、地ノ城自落、本城ニ被立旗。七日戌刻(午後8時ころ)飯富当塩田城主ノ御請被申、滅日。八日本城へ飯富被罷登候」とある。
また、同年の『妙法寺記』に「八月信州村上殿塩田ノ要害ヲ引ノケ、行方不知ニ御ナリ候、一日ノ内ニ要害十六落申候、分レ捕リ高名足弱イケ取ニ取申候事、後代ニ有間敷候」と記している(『信濃史料叢書』)。
前述のように、塩田城は天文22年(1553)8月5日に武田軍によって落城し、在城していた村上義清は、越後の上杉景虎(謙信)を頼って逃亡した。これから信濃の東部、中部は武田晴信の支配圏に入った。晴信は、塩田城に飯富氏を常駐させ、この城を拠点に北信濃経略を開始した。このため、上杉景虎も信濃に出陣し、12年に及ぶ両雄の川中島の戦いが始まるのである。天正10年(1582)3月、武田氏滅亡後は、真田氏がこの地方を支配し、上田城に政治の中心が移り、塩田城は廃城となった。