塩野神社
カテゴリー:武田軍関連 神社・寺 | ◇アクセス
読みは「しおのじんじゃ」。上田市塩田平の独鈷[どっこ/とっこ]山麓にあるにある古社。祭神は、素佐之男命[すさのおのみこと。須佐之男命、素盞嗚命とも書く]、大己貴命[おおむなちのみこと]、少彦名命[すくなびこなのみこと]。中世には諏訪大明神と称され、同地方の生島足島[いくしまたるしま]神社に次ぐ大社として、武田信玄や真田昌幸、信之らも信仰を寄せた。永禄11年(1568)東信濃を勢力下とした信玄は、同神社に社領寄進状を出し、越後国境における築城の無事を祈らせたという。
江戸時代に建立された拝殿は、めずらしい「楼閣造り(桜門造り)」。境内を流れる塩野川には太鼓橋が架かる。独鈷山は、その昔、弘法大師空海が山頂に独鈷杵[どっこしょ](仏教の法具)を埋めたという伝承から呼ばれるようになった山。雨の少ない塩田平地方の水源でもあるため、独鈷山の山岳信仰から生まれた神社といわれている。
『延喜式(えんぎしき)』神明帳※に「小県郡五座 大二座・小三座」とある。塩野神社は大二座中の一座(並ぶ一座は生島足島神社)で、貞観15年(873)4月5日、従五位下に叙せられたことが「三代実録」にみえる。
永禄11年(1568)4月21日、武田信玄は「信州塩田の郷、諏訪社領拾貫の外、従来秋拾貫加増候、即ち相当に祭礼勤むべし、しこうして今度越国境において新地を築く節、風雨兵革の災いなく、普請出来せしむれば重ねて御社領寄付有るべきの旨、御下知候ものなり」と、社領10貫文のほか、新たに10貫文の社領寄進状を出して、信越国境における新城築城の祈願を命じている(『信濃史料』第2巻)。真田昌幸(幸隆三男)は、天正15年(1587)11月朔日、「神領として、前山の内七貫文、新たに寄進せしめ候、向後宮造営肝要たるべきものなり」と7貫文を寄進している(同16巻)。
※「延喜式」は、平安中期、延喜5年(927)に律令法の施行細則を全50巻に集大成した法典。その内の巻9・巻10は、全国に鎮座する主要な神社・神々の総覧として、一般に「神名帳(じんみょう/しんめい/じんめい・ちょう)」と呼ばれている。記載された官公認の神社(式内社)は2861座、祭神は3132座である。(座は神社や祭神・仏像などを数えるときに用いる単位・助数詞)