史跡ガイド

史跡紹介

村上義清公墓所(供養塔)

カテゴリー:供養塔・墓 | ◇アクセス

 江戸時代初め、越後高田藩の所領・坂木五千石の奉行となった長谷川安左衛門利次が建てた村上義清の墓所。埴科郡坂城町にある。

 明暦3年(1657)、坂木の名家遺跡の亡失を憂えた利次は、義清の子孫・義清の家臣の子孫らにはかり、自ら施主となって義清公供養のための墓碑「坂木府君正四位少将兼兵部小輔源朝臣村上義清公神位」を寄進によって建立した。

 利次は、坂木宿の拡張、寺社の復興、用水・溜池・井戸の新設、千曲川の治水などに力を入れ、寛文11年(1671)に転任のうわさが出ると留任嘆願運動が起こったほど、領民から篤く信望されていた名奉行といわれる。村上義清公墓所建設は、その文化保護施政の一つであった。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 天文22年(1553)8月、戦いで武田信玄に敗れ、塩田城をすて、上杉謙信を頼って越後に落ちていった村上義清は50歳を越していた(文亀元年(1501)生まれ)。

 弘治元年(1555)・同3年(1557)・永禄4年(1561)・同7年(1564)の川中島の戦いには、旧領を回復し、坂城葛尾に帰城を期し、信州先方衆の総帥として出陣したが、往時の勇将の面影は出陣するごとに薄れ、老将義清の願いはかなえられなかった。

 川中島の戦いが終結した以後は、上杉謙信の庇護を受け、元亀4年(1573)元日に根知城(新潟県糸魚川市)で73歳の生涯を閉じた(『寛政重修諸家譜』では、越後国魚沼郡赤沢城にて没)。義清の子源吾国清が、謙信の養子になっていたこともあって、上越市五智の光源寺に葬られた。坂城町田町の墓所は、分骨して埋葬したという。光源寺の義清公墓所は、新潟県の史跡に指定されている。

アクセス