笄[こうがい]の渡し
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場所は埴科郡坂城町刈屋原。千曲川の渡し場で、江戸時代には坂木宿と川向こうの力石[ちからいし]・上平[うわだいら]とを結ぶ重要な渡し場であった。
天文22年(1553)、武田軍に攻められ葛尾[かつらお]城が陥落したとき、敗走の混乱で村上義清と別れ別れになった夫人とその侍女たちは、山道を降り、川向こうの荒砥[あらと]城へ逃亡しようと千曲川の渡しまでやって来た。船を捜し出し、理由を話したところ、船頭は危険をかえりみずに引き受け、向こう岸へと船をつけた。心打たれた奥方だったが、命からがら逃げてきたので舟の渡し賃を持ち合わせていなかったため、髪に挿していた美しい笄[こうがい]をお礼として手渡したという伝説が残る。いつ知れず、領民たちはそんな奥方を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになったという。(現地案内板より)
現在、渡しがあった付近には、「こうがい橋(通称もぐり橋)」と呼ばれる橋が架かり、刈屋原堤防には北国街道時代の榎並木の名残をとどめた小公園がある。ここから東方面を仰ぐと葛尾城の属城姫城跡の肩先が見えるが、そのわずか下に「灯[ともし]の松」と伝えられる赤松が見える。葛尾城の炎上を見た義清の夫人と侍女たちが姫城を抜け出て、その途中松の木にタイマツを結びつけて急坂を下り、千曲川岸辺に降りた。このときにタイマツを結びつけたのが今に伝わる「灯の松」といわれている。
なお、姫城跡には夫人が姿を変えたとされる「比丘尼石[びくにいし]」、対岸の上平には夫人が自刃したという「姫宮の跡」なども残されている。
※参考 『古戦場案内手引き書』岡澤由往編、『長野県の武田信玄伝説』笹本正治編(岩田書院)
千曲川と犀川が合流する長野市真島町川合には、村上義清夫人にまつわる「鬼が島」の民話が伝えられている。(笄の渡し・現地案内板とは少し内容が異なる)
葛尾城を脱出した義清夫人は、髪に挿していた笄(こうがい)を船賃のかわりに与え、船頭に迷惑のおよぶのを案じて、「世に経なばよしなき雲も覆いなん いざいつ出まし山の端の月」と、一首の歌を詠んで、船より千曲川に身を投じた。夫人の体は千曲川が犀川に合流する付近の川合村万野(まんの)の中州(なかす)に漂着した。
時たま万野に秣(まぐさ)を刈りに来た百姓夫婦が、中州に美しい着物をまとった女性が漂着しているのを発見した。驚いた夫婦は、秣刈りも忘れて懸命に介抱した。その甲斐あって女性は蘇生した。夫婦はいろいろ尋ねてみたが、ただ感謝のことばを述べるだけで、あとは嗚咽してことばにならなかった。
夫婦はこの女性の身なりや物腰の品のよさから、義清さまゆかりの方と思い、一日も早く義清さまの逃れた春日山に送り届けようと思った。そこで、人目につかないように仮小屋を造り、朝な夕なに食事を運び、手厚く介抱した。そして帰宅しては、
「秣刈りに万野に行ったら中州で鬼に出っくわし、ひでえ目にあったでごわす。あそこんとこは鬼が住み着いている恐ろしい場所だで、近づかねこんですな(近づかない方が良いですよ)」
と、村人たちに話した。
夫婦の献身的な介抱で、女性は日増しに体調が回復していった。同時に「万野の中州には、村上のかなりの身分の高い落人がいるらしい」という噂もたってきた。この噂が武田方の耳に入り、武田の武士が中州の隠れ家を急襲した。しかし、そこには人影も、人の住んだ形跡もなく、ただ千曲川の瀬音がするばかりであったという。
義清公の夫人がどこに逃れ、どうなったかは語り伝えられていない。