屋代城跡
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別名・一重山[ひとえやま]城。千曲市にある。東信濃と善光寺平に接する千曲川沿いの要地にあり、城主は村上支族の屋代氏とされる。一重山の尾根に、南北に連なる郭と堀切を置き、川中島地方の南端に威容を誇っていた。
屋代城跡の看板
北信濃へと兵を進める武田信玄が天文22年(1553)葛尾城を攻めて村上義清を追いやると、一重山一帯を治めていた屋代政国と塩崎城主の塩崎氏は信玄側についた。政国は恩賞として雨宮[あめのみや]の地を信玄より与えられる。以降、屋代城と塩崎城は川中島進出の前衛となったが、永禄2年(1559)に、屋代氏は荒砥[あらと]城に移り、そこを本拠とした。
地続きに森将軍塚古墳があり、現在は「科野の里歴史公園」として整備。麓には長野県立歴史館がある。
屋代城(一重山城)は、姨捨十三景(冠着[かむりき]山・鏡台山・有明山・一重山・姨石・姪石・甥石・小袋石・更級川・田毎月・桂樹・宝ヶ池・雲井橋)の一つ、一重山山頂(標高458m)にある屋代氏の居城である。本郭は東西約22m・南北約58m、堀切跡もみられた(『長野県町村誌』)。一重山は展望が良く、月見の名所でもあった。
天文17年(1548)2月、上田原で討ち死にした屋代源吾基綱[やしろげんごもとつな]は、義綱(よしつな・政国)の長子である。天文22年(1553)8月、屋代安芸守義綱[あきのかみよしつな](越中守政国)は宗家村上義清に従っていたが、武田晴信(信玄)の信濃攻略で、義綱は武田氏に降り、屋代千貫文の地を安堵された。義綱・清綱(正長とも。義綱の次男)父子は、武田信州先方衆として川中島の戦いでは宗家村上義清と矛を交えた。
天正3年(1575)5月、清綱は武田勝頼に従って長篠の戦いで討ち死にした。義綱(政国)は実弟室賀満政[むろが・みつまさ]の4男秀正(勝永・忠照)を養子にし、屋代の名跡を継がせた。天正10年(1582)上杉景勝が川中島を領有すると、秀正は景勝に属し、海津城副将となった。同12年(1584)、秀正が徳川家康と内通していたことが露見し、秀正は海津を追われ、いったんは荒砥城に籠もったが、村上国清[むらかみ・くにきよ]らに攻められ、城を捨てて逃れ、家康に仕えた。
※参考『更級郡埴科郡人名辞書』(岡澤由往)