鳥打峠
読みは「とりうちとうげ」。松代の城下町から東寺尾を経て大室へ越え、更に飯山方面へと向かう谷街道※の峠。武田信玄や山本勘助も一目おいた額岩寺光氏(がくがんじみつうじ)が、主君の村上義清のため武田方に降参して入り込み、密かに謀叛を企てるが、その目論見を春日弾正(高坂弾正)らに見破られて、布下左衛門、和田修理とともにこの鳥打峠の麓で処刑されたという(『甲越信戦録』より)。
鳥打峠は寺尾城山系と金井山との鞍部(あんぶ/山の尾根のくぼんだ所)にあたり、慶長16年(1611)に海津城代花井吉成(はないよしなり)によって峠道が開設されたと伝えられる。峠道の途中には、松代藩時代の刑場があり、伝承によると、慶長7年(1602)領主の森忠政は検地に反対した一揆の首謀者600人をこの鳥打峠で磔(はりつけ)に処したという。
鳥打峠開通以前には、尼巌(あまかざり)山系の可候(そろべく)峠が主要な道として利用され、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、上杉謙信が越後から1万3千の兵を率いて信濃に入り、可候峠を越えて妻女山に本陣を構えたともいわれる。
※谷街道(谷筋道)……善光寺道の稲荷山宿から矢代宿・松代・綿内・須坂・小布施町組・中野と千曲川右岸を下り左岸に渡って飯山に至り、さらに越後の十日町に至る道。古くから信濃国と越後国魚沼方面を結ぶ要路だった。