安田の渡し(綱切りの渡し)
読みは「やすだのわたし(つなきりのわたし)」。安田の地は高井方面から千曲川左岸の飯山方面に出る重要な渡し場であり、「綱取」とも通称されていた。
『甲越信戦録』では、永禄4年(1561)八幡原の激戦後、上杉謙信は和田喜兵衛を従え、山道を越えて落武者狩りの野武士に狙われながら、間山(まやま)に抜け、翁に姿を変えた小菅権現の導きで、千曲川の安田の渡しまで辿りついた。和田喜兵衛は追い来る野武士らの行く手を断つため、渡し場の水面に張った大綱を切り落とし、船の往来ができぬようにして、富倉峠を越え、春日山城へと向かった。以来、安田の渡し場を「綱切りの渡し」と称したという。
現在、渡しのあった上流には、綱切橋(安田橋)※が架けられ、橋のたもとには川を渡る謙信主従のレリーフが刻まれている。
※当時、川を越える方法の一つに綱渡し(操り綱式)があり、川の両岸に張った綱を手繰るなどして船を渡した。洪水の際には流されないように綱を切り、洪水が去るとまた綱をかけたことから、橋の名前も綱切橋と名づけられたという。(参考:千曲川河川事務所ホームページ「千曲川辞典」)