平倉城跡(小谷城跡)
読みは「ひらくらじょう/おたりじょう」跡。小谷村中土の姫川右岸、松本から越後の糸魚川(いといがわ)に抜ける要衝にあり、標高835mの平倉(ひらくら)山に築かれた山城。
弘治3年(1557)7月、神城飯盛(白馬村)の一夜山(いちやさん)城に居城した飯盛森春(いいもりもりはる(春盛とも))は、武田軍の山県昌景の攻撃にあって敗走し、平倉城に籠城した。城は兵糧や水に恵まれなかったため、小谷衆の一人、山岸豊後の援軍もむなしく、城は落ち、森春も討ち死にしたという。そして、平倉城を攻略した武田軍は越後国境に迫り、春日山城の背後を脅かした。
なお、この年の2月には、武田軍が水内郡の葛山(かつらやま)城を攻略し、上杉謙信が信濃に出兵した第3次川中島の戦いがあった。謙信は坂木岩鼻まで攻めるが、信玄は直戦を避けた。上杉軍は飯山方面に兵を退き、野沢の市河藤若(いちかわとうじゃく/とうわか)を攻めるなどしたが、北進を続ける武田軍の勢力を押し戻すことはできなかった。
城跡の近くには、武田方が残党狩りを行った際、男を皆切ってしまったという「切った屋敷」跡などが残り、落城の悲哀を物語っている。
また、城跡の下を流れる中土川(なかつちがわ)を尼巌山(雨飾山)方面へとさかのぼれば、信玄の隠し湯といわれる小谷温泉に至る。