虚空蔵山城跡
読みは「こくぞうさんじょう」跡。鎌倉初期、小県(ちいさがた)郡の海野(うんの)氏を祖とする会田(あいだ)氏の城。会田氏は、麓の会田殿村に居館を置き、虚空蔵山(こくぞうさん・標高1,136m)の中腹に中の陣(本城)や秋吉砦などを配し、山頂には物見の砦などを設け、要害城とした。
天文22年(1553)4月、武田軍は虚空蔵山城の中の陣を放火し、城主の会田氏は降服する。同年9月、第1次川中島の戦いで、更級郡布施と八幡で武田軍を破った上杉軍は、筑摩郡にも侵攻し、武田方の青柳城(あおやぎじょう)に放火。会田の虚空蔵山城も攻め落とした。これに対し、武田軍は麻績(おみ)城、荒砥(あらと)城に放火するなど、一帯は武田・上杉軍の激しいせめぎあいが繰り返された。
武田氏滅亡後、残存した会田氏の一族は、上杉氏の支援を得て小笠原氏に抗したが、深志城を回復した小笠原定慶(おがさわらさだよし)により天正10(1582)年に亡ぼされたという。なお、現在まで系統を継ぐ埼玉県越谷市・川越市の会田氏、新潟県柏崎市の会田氏、安曇野市穂高の会田氏は、武田氏に追われて現住地に移った一族と伝えられている。