三太刀七太刀之跡の碑
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三太刀七太刀之跡の碑
左は八幡社
読みは「みたち・ななたちのあと」の碑。謙信・信玄一騎討ちの場所と伝えられ、三度斬りつけ軍配団扇(ぐんばいうちわ)には七つの傷が残っていたことから、こう言われている。
逸話では、永禄4年(1561)の川中島合戦に、武田・上杉両陣営の旗本(はたもと)が入り乱れての大乱戦となった、信玄の身辺が手薄になったとき、風のように信玄の本陣に切り込んできた武者がいた。萌黄(もえぎ)の胴肩衣(どうかたぎぬ)をつけ、頭を白布で包んだ武者は月毛の馬の馬上から、三尺ほどの太刀をふるい、床几(しょうぎ※)にかけている信玄めがけて、三太刀斬りつけた。信玄は立ち上がり手にした軍配団扇で受け止めたが腕に二箇所の傷をおった。駆けつけた信玄の旗本が槍で馬上の武者を突いたがはずれ、鎧の肩にささった。これを叩き落とそうとして馬の尻を叩いてしまったので、馬が立ち上がり、一目散に走り去った。この白頭巾の武者こそが、上杉謙信であったという。後で信玄の団扇を調べてみると、刀の傷が七つもあった。
※床几…折りたたみ式の腰掛け。
「三太刀七太刀之跡」には、信玄・謙信一騎討ちの像とともに碑が建てられている。
八幡社本殿の東側の土塁、逆さ槐(えんじゅ)の巨木に並んで「三太刀七太刀之跡」の石碑が建っている。永祿4年(1561)9月10日、謙信が単騎信玄本陣に切り込み、馬上から信玄目がけて切りかかった場面について『甲陽軍鑑』は「謙信の切っ先は外れたが三太刀切りつける。信玄は軍配団扇で受け止めた。あとで見たところ団扇に八ヵ所の刀傷があった」とある。『甲越信戦録』では、「信玄は軍配団扇ではっしと受け止める。また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けた」とある。この「三」や「七」は実数ではなく、何度も何度という副詞的に使われている数字である。また、音読する場合「三太刀」「七太刀」は語呂合わせがよい。この点から「三太刀七太刀」と表記したものであろう。
史跡公園が造成されるまでは、三太刀七太刀之跡の碑は、八幡社地の東側の桑畑沿いに東南方向に広がる水田地帯へ通じる作場道があった。その作場道の下り終わる手前の小字「三太刀七太刀」(史跡公園の池の南西端付近)に大正時代、地元の眼科医で漢学者の井上雲桂が「三太刀七太刀之跡」を自書し、石工に刻ませた石碑である。石碑は史跡公園造成で八幡社地の東側に移設された。その後、現在の石碑の真後ろ辺りの社地北側へと移設された。
土塁は東西34m・南北45m 、北側は八幡社本殿の建物の下になって壊されている。信玄が本陣にしたとき構築したものと伝えている。槐の巨木は本陣の逆茂木(さかもぎ・防護柵)に用いた槐の杭が根づいたところから「逆さ槐」なったという。首塚の北側に「梨本宮(なしもとみや)殿下御手植之松」の石碑がある。大正6年(1917)の御手植えの松は枯れて痕跡もないが、その後ろに槐の木がそそりたっている。この槐の木は、御手植え松の保護柵として「逆さ槐」になるものか試しに本殿脇の逆さ槐の巨木の枝を杭としたものという。