勘助宮
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読みは「かんすけのみや」。山本勘助が討ち死にしたあたりといわれ、長野オリンピックスタジアムがある南長野運動公園の南西の端に石碑が建つ。現在の地より北東約100メートルの位置にあった。
勘助宮はもともとは北小森集落の氏神(うじがみ)で、建御名方神を祭る諏訪社があった。その後、地元ではこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになったという。昭和初年に、地区の有志が数十本の桜とともにこの石碑を建立した。碑文は勘助を偲んで南條文雄文学博士が書き、揮毫(きごう…毛筆の字)は川中島合戦の戦略に興味をいだいた寺内正毅元帥によるもの。
(長野市篠ノ井東福寺)
山本勘助は、信玄から「晴」の一字を与えられ、晴幸と称した。仏門に入って後、道鬼齋(どうきさい)と号した。天文12年(1543)44才のころ、信玄に見出され、3百貫の知行を受け、信玄に仕えた。その後、同15年に足軽75人、8百貫の知行を受け、足軽大将となり、原隼人、小幡山城守、原美濃守、横田備中守、多田淡路守ら5人衆に加えられた。信玄に仕えた勘助は、身障者、小男という自分の外見にこだわらず、才能を見出し、その努力を高く評価し、心を掛けてくれる信玄への報恩の思いが日毎に募っていった。
勘助は、永祿4年の第4次川中島の戦いでは、旗本侍大将として出陣。自ら進言した啄木鳥(きつつき)戦術が謙信に見破られて、武田軍は初戦敗北し、信玄は窮地に陥った。これを見た勘助は、信玄の恩に報いるのはこのときを逃してはあるまいと上杉軍の中に切込み、泥木(泥真木)明神付近で討死したと伝えている。その後、主君の恩に報いるために討死したこと、身障をのりこえ、知謀を身につけた勘助の徳を讃え、北小森の村人は泥木明神に勘助を合祀し、勘助宮と改称したと伝えている。
勘助宮境内に昭和5年(1930)山本勘助を讃える南条文雄(なんじょうぶんゆう)文学博士の七言絶句を、寺内正毅(てらうちまさたけ)元帥が揮毫した詩碑は、勘助宮跡近くの南長野運動公園南西隅に移建されている。
[碑文]
古戦場邊有古宮 老松蒼鬱欲凌空
誰哉樹下運奇策 如見千秋道鬼翁
※
古戦場の辺りに古宮有り
老松蒼鬱(そううつ)として空を凌がんと欲す
誰か樹下奇策を運(めぐ)らす
千秋道鬼翁(どうきおう)を見る如し