雨宮の渡し
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読みは「あめみやのわたし」。永禄4年(1561)の9月9日夜半、妻女山(さいじょさん)に布陣していた上杉謙信は、武田軍の炊飯の煙を見て夜襲(啄木鳥[きつつき]の戦法)を察知。1万3千の兵を率いて雨宮の渡しを人馬ともに声なく渡り、信玄の本陣を突いたという。
雨宮の渡しは、北国往来の交通の要衝であり、戦術戦況を左右する場として平安時代からしばしば争奪の地となった。現在、かつての川筋が変わり、千曲川から離れた跡地には、記念碑と江戸後期の漢学者・文人でもあった頼山陽(らいさんよう)の「鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る……」の有名な詩碑(直筆)が建っている。
【頼山陽の詩碑】
鞭聲肅肅夜河を過る
曉に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一劍を磨き
流星光底に長蛇を逸す
『甲陽軍鑑』によると、8月16日、上杉謙信が西条山に本陣を取り、海津城を攻める陣備えであると、甲州の信玄に急変を告げた。そこで信玄は18日、1万の軍兵を引き連れて躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を出発し、24日に雨宮渡を拠点に本陣を構えた。西条山の上杉軍の退路を断つためである。両軍対陣すること5日、信玄は陽動作戦にでた。29日に信玄は雨宮本陣を引き払い、雨宮渡から千曲川の左岸に出て、広瀬で再び千曲川を渡り、海津城に入った。(『甲越信戦録』では信玄は、雨宮渡ではなく、有旅[うたび]の茶臼山[ちゃうすやま]に布陣後、広瀬を越えて海津城に入ったとある)
雨宮渡は、北国往来の要地にあたっていたので、たびたび争奪の地となった。養和元年(1181)平家の城資職(じょうのすけもち)と、源氏の木曾義仲が戦った横田河原合戦や、応永7年(1400)信濃の新守護、小笠原長秀と村上満信ら大文字一揆党が戦った大塔(おおとう)合戦も、みな「雨宮渡」の争奪戦であった。大塔合戦で小笠原軍に勝利し、長秀を京都に追放したことにより、村上氏の所領は更埴南部地方から川中島へと拡大し、川中島の小領主は村上氏の家臣団に組み込まれた。山田氏・矢代氏・雨宮氏・清野氏・西条氏・東条氏・小田切氏・今里氏・広田氏・藤牧氏・栗田氏らは、いずれも村上氏の支族である。高梨氏は村上氏との争いを避け、高井、水内北東部へと所領を拡大し、戦国期には中野小館を拠点に奥信濃をほぼ支配下においた。