謙信槍尻之泉(やりじりのいずみ)
カテゴリー:上杉軍関連 碑・像 | ◇アクセス
第4次川中島の戦いで上杉謙信が妻女山に本陣をかまえたとき、槍の尻で地面を突いたところ、水が湧き、泉ができたといわれる。現在も水が湧き出ている場所には、地元有志の人々による石碑が建っている。
自ら毘沙門天の化身と称し、義を重んじた上杉謙信の性格から、泉の水は霊水伝説を生み出し、各地から大勢の人々が水を汲みに訪れた時代もあったという。
国道403号線から妻女山[さいじょざん]に向かう道沿いにあり、長野電鉄の踏切を渡り、高速道の高架橋の下をくぐって右の道を登りはじめた右手にある。
※現在、保健衛生面からこの水はお飲みいただけません。
松代の月岡家は、茶道をもって松代藩真田家に仕えていた家である。月岡万里[つきおか・まり]が、江戸詰の父・久栄に出した書状の追伸に、「妻女山に霊水が湧く」という話が伝わって、松代城下町、近郷はもちろんのこと、善光寺町や越後高田方面から、連日この水を求めて大騒ぎになった様子を次のように知らせている。
「岩野村妻女山より霊水が出で、この水は諸病・でき物など、もろもろの病気に能く効くという噂がたって、毎日貴賤をとわず、群衆がこの池水を求めて大騒ぎです。この泉は、むかし謙信公が川中島に出陣の節、妻女山にご陣なされた。そのおり槍の石突きで堀られた跡といい伝えています。このたびは、どこから噂が出たのでしょうか。城下近在はいうまでもなく、善光寺町、下越後よりも参る由、毎日大騒ぎです」(月岡家文書)
謙信の「槍尻泉」の伝承は、松代町に東接する若穂町川田東光寺付近にもある。越後も甲斐と同じく温泉に恵まれている。それでいて「謙信の隠し湯」伝承は、それほど多くは聞かない。それだけに霊水伝承に謙信の人柄が忍ばれる。
月岡久栄は、天保5年(1834)勤番中の江戸で病死している。文化7年(1810)生まれの万里から推して、この妻女山の霊水騒ぎは、永禄4年(1561)の川中島の戦から約270~280年後の文政末年から天保初年ころと推定される。
NHK大河ドラマ「風林火山」の放映が決定した昨年(平成18年)ころから、古戦場ブームがおきた。これと同じように、江戸時代にも、50年、100年という節目ごとに川中島古戦場ブームが訪れた。こうした世相を背景として、典厩寺[てんきゅうじ]の信繁墓は元禄16年(1703)、柴阿弥陀堂の山本勘助角柱の墓は安永4年(1775)、重修された角柱の墓は文化6年(1809)、典厩寺閻魔堂[えんまどう]は万延1年(1860)と、それぞれ建立されている。