高坂弾正忠昌信の墓(春日虎綱の墓)
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読みは「こうさかだんじょうのじょう※・まさのぶ」、「かすが・とらつな」。川中島の前線拠点である海津城の城将として活躍し、合戦後、北信濃の経営を担った高坂弾正忠昌信は、天正6年(1578)病没し、彼が再興したと伝えられる明徳寺に葬られた。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
高坂弾正忠昌信の墓
明徳寺
高坂弾正忠は、山本勘助に兵法や築城の教えを受け、甲州流軍学の創始者と言われるほどの智将であった。信玄、勝頼(かつより)の2代にわたって仕え、山県昌景(やまがたまさかげ)、馬場信春(ばば・のぶはる)、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)と共に武田の四天王と称され、信玄の寵童であったとも伝えられる。
川中島の合戦後には、敵味方の区別なく戦死者の遺体を丁重に収容し、武具に至るまで取り揃えて敵方に引渡したという。のちに上杉謙信が越後から甲州の民に塩を送ったという美談があるが、これは高坂弾正忠の義に対する返礼であったと伝えられている。
明徳寺の本堂は、入り口が建物の左寄りに設けられている珍しい造り。お堂には「酒飲み弥勒」の伝承で知られる弥勒菩薩が安置されており、本堂の裏には、ヒキガエルが産卵のために群集する「蛙合戦」の池などがある。
「三十六計逃げるにしかず」という諺がある。これは、はかりごとや駆け引きも多いが、困ったときは、あれこれ迷うよりは、機をみて逃げ出し、身を安全に保つことが最上の方法である。身の安全をはかって、後日の再挙を計れ」ということを諭したものである。この諺の範たる武将が、武田信玄の智将、高坂(香坂)弾正忠昌信である。
高坂弾正は沈勇にして、はかりごとを好み、機を察して軽率な軍事行動を起こして、自ら墓穴を掘ることはなかったという。こうした弾正の人柄が、「真田弾正鬼弾正!保科弾正槍弾正!高坂弾正逃げ弾正!」と子供たちにも囃され歌われた。
高坂弾正の角柱墓碑の一部分は、不自然に風化したように窪んでいる。これは、かつて瘧(おこり・マラリヤなどの熱病類)を患う者が、墓石に塩を供えて祈ると必ず験(げん)があると伝えられていた。こうしたところから、瘧を患う者やその縁者らが、欠き削り取ったので、できた痕跡という。楼門の脇には松代藩家老、鎌原桐山撰文の高坂弾正頌徳碑がある。
元亀3年(1573)、弾正は海津城主となり、川中島9千貫を宛てがわれた。天正6年(1578)5月11日、海津城において53歳で病死した。天文22年(1553)より没するまで、25年間、上杉氏がしばしば川中島に侵攻したが、高坂弾正は固く備えて、海津攻撃の隙を与えなかった。山梨県笛吹市石和町市部字広岡の弾正生地に「春日屋敷」跡がある。