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幕張の杉(記念碑)[まくはりのすぎ]

カテゴリー:武田軍関連 上杉軍関連 碑・像 | ◇アクセス


幕張の杉 記念碑

第4次川中島の戦いで、地元の里人の申し出により、甲越両軍が戦場との境界として幕を張り、その時利用された杉の木。

永禄4年(1561)、信濃に進軍してきた甲越両軍に対し、川中島西部6ヶ村(中氷飽[なかひがの]・上氷飽[かみひがの]・戸部[とべ]・今井・今里・岡田)の里人は、耕地も人家も多いこの地に戦火が及ばぬようにと、両陣営に手打ちを覚悟で願い出た。

武田信玄・上杉謙信の両将は合戦後の占領政策を考慮して、この願いを聞き入れ、約束の証しとして代表の青木家の屋敷に杉の木を植え、幕を張って戦場との境を設けた。そして、9月10日の合戦では両軍とも約束どおり停戦ラインを越えて合戦はしなかったといわれる。

合戦当時に植えられ、青木家の宅地の東南と、北東の隅に立っていた2本の杉は大人二人で抱えるほどの巨木であったが400余年の樹齢のため、戦後まもなく伐採。その根から伸びた二代目の杉の木も平成10年(1998)の台風で幹が折れ、伐根された。現在、その場所に「幕張の杉」と刻まれた記念碑が建つ。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 永禄4年(1561)の川中島の戦いで、武田軍の新手の攻撃を受けた上杉軍は、犀川を目ざして北走した。犀川の河原は、これら追い詰められた上杉軍の将兵で死体の山を築いたという。地名の「陣場河原」はこうしたところからついたという。また、「幕張の杉」北東の陣場団地に八幡社がある。この小社を「勝鬨神社[かちどきじんじゃ]」ともいう。武田軍は合戦が一段落すると、この神殿の前に勢揃いをし、勝鬨をあげたと伝えている。

 なお、中氷鉋[なかひがの]境区に、信玄が勧請したと伝える境福寺[きょうふくじ]がある。境内には武田軍の将兵が喉を潤したと伝える「信玄憩いの井戸」がある。

 青木家は、応永7年(1400)信濃新守護小笠原長秀に抗した大文字一揆党の安曇の土豪、仁科盛房[にしなもりふさ] の弟、小次郎を祖とする。小次郎は犀川の下流に住居を構えて、荒れ地を拓き、故郷青木湖に因んで、この地を青木島と名づけ、姓を青木と改称した。青木家は戦国期には、川中島地方の水利権をも支配する豪農として、近隣に威を振っていた。

 八幡原の激戦から33年後の、文禄4年(1595)に実施された太閤検地、その検地帳(長野市文化財)に、中氷鉋村の屋敷持ち百姓27軒のうち、失せ人屋敷が13軒もある。半分の屋敷は無人屋敷となっている。13軒すべてが、川中島の大激戦の犠牲になったのではないとしても、戦火は里人らの申し入れも空しく、この村にも及んだことを数字は物語っている。また、岡田・今里・今井・戸部・上氷鉋・中氷鉋の川中島西部6ヵ村は、元和8年(1622)、真田信之[さなだ・のぶゆき] が松城藩主として入封すると、武田信玄の武将となった真田を拒否し、幕府に願い出て、上田藩の飛び領地にしてもらったと伝えている。

アクセス
長野ICより車約20分