戸隠神社(中社)
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読みは「とがくしじんじゃ」。戸隠山のふもと、奥社・中社・宝光社(ほうこうしゃ)・九頭龍社(くずりゅうしゃ)・火之御子社(ひのみこしゃ)の五社からなる山岳信仰の霊場。「天岩戸」神話の舞台でもあり、平安時代末には修験道(しゅげんどう)の道場として都に名は知られていた。神仏混淆(しんぶつこんこう)の時代には「戸隠十三谷三千坊(とがくし・じゅうさんごく・さんぜんぼう)」と呼ばれ、比叡山、高野山に匹敵する一大霊場に数えられたという。
戸隠 中社
戸隠 奥社
戦国期は、謙信方の勢力下にあったが、信玄が上杉攻略の軍用道路として戸隠往来の道筋を重視し、戸隠神社にも圧力をかけたため、もう一つの「川中島合戦」前戦地となった。宗徒らは難をさけてこの地を離れ、修験道場は衰退するが、のちに上杉景勝(かげかつ)が再興。江戸時代には徳川家康の保護を受けて、奥社参道に植樹された杉並木が今も霊場の荘厳な雰囲気を漂わせている。
なお、戸隠大神は、水の神・豊作の神として崇められ、農作業の道具である鎌をご利益の象徴として表したという鎌卍(かままんじ)が社紋となっている。
弘治3年(1557)2月、牧之島(まきのしま)城主、馬場美濃守率いる武田軍に攻められた葛山城(かつらやまじょう)救援に謙信は戸隠に進軍した。しかし、すでに葛山城は武田軍の猛攻で落城し、城主落合備中守は城を枕に討ち死にしていた。これについて、謙信は色部勝長に「今度晴信出張り、落合方家中引き破り候ゆえ、葛山の地落居す」と書状を送っている。葛山落城により、戸隠神社別当栗田氏は、水内北西部と善光寺周辺部とを一帯化した支配権を確立した。
古戦場になった川中島地方は、古来から戸隠山は、農業神、地主神の九頭龍神(くずりゅうしん)信仰として、雨乞いに霊験あるとされ信仰されていた。その信仰は、今も集落ごとの講(こう)という信仰集団を基盤としている。日照り続きで雨乞いが切実になると九頭龍池(種池)の水を受けて帰村し、この池水(種水)を産土神(うぶすながみ)に供えて雨乞い祈願したことが、川中島地方の村々の古文書に多く残されている。八幡原史跡公園のある小島田村では、八幡社で村中集まって雨乞い祈願をしていた。このように戸隠信仰のとりわけ強い川中島であったゆえ、戸隠神社の支配権確立は、信玄、謙信にとって人心掌握上、必要不可欠であった。