ノロシ山(狼煙山)
カテゴリー:武田軍関連 城・館 | ◇アクセス
海津城(かいづじょう)の背後、武田軍の狼煙(のろし)台が置かれていた山。永禄4年(1561)8月14日、謙信の進撃を知った海津城将の高坂弾正忠(こうさかだんじょうのじょう※)は、冨士山形にそびえるこのノロシ山より烽火(のろし)をあげて、甲州までの37里をわずか2時間余で知らせたという。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
山頂
ノロシ山のあたりは岩盤が固く、太平洋戦争の末期、軍部が大本営移転のために構築した「松代大本営・象山地下壕」がある。現在は気象庁精密地震観測所が設置され、地下壕の一部は一般公開されている。北の舞鶴山(まいづるやま)中腹には真田氏ゆかりの白鳥(シロトリ)神社が建つ。
ノロシ山 白鳥神社参道登り口
武田軍に「飛脚篝火(ひきゃくかがりび)」という軍法がある。いわゆる狼煙による情報伝達である。川中島に何か急変があったときは、狼煙山から五里ヶ峰(千曲市戸倉)・腰越(こしごえ)山中久保(小県郡長和町長久保)、和田峠(小県郡長和町)・金沢(茅野市金沢)、若神子(わかみこ・山梨県北杜市須玉町若神子)など8ヶ所あったという狼煙台を経て、古府(こぶ)城(躑躅ヶ崎館・つつじがさきやかた)へと情報が伝達された。狼煙による情報伝達は、海津城から古府までの距離・約150Kmを2時間ほどで伝達したという。狼煙台には20人の兵士が常駐していた。若神子城趾には、当時の狼煙台が復元されている。
謙信が永禄4年(1561)8月16日、川中島に出陣したことがいち早く狼煙で古府城に知らされた後、櫛を梳かすように次々と早馬飛脚による詳細な注進状が、海津城から信玄の元に届けられた。狼煙と早馬飛脚との情報伝達で、謙信が妻女山に本陣を構えた2日後の18日、信玄は1万の軍勢を整えて、古府を出陣することができたのである。
ノロシ山(標高843.9m)の北西の支脈、舞鶴山(標高559.6m)には、太平洋戦争末期に築構された大本営地下壕がある。