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史跡紹介

十二ヶ瀬

カテゴリー:武田軍関連 | ◇アクセス

読みは「じゅうにかせ」。永禄4年(1561)9月10日、山本勘助の「啄木鳥(きつつき)の戦法」を謙信に出し抜かれた武田1万2千の啄木鳥隊が、急ぎ信玄本陣の川中島へ向かって渡ろうとした千曲川の浅瀬。現在の岩野橋の約2kmほど下流とされ、妻女山から信玄本陣八幡原の最短コース(妻女山から約4km)であった。

しかし、武田軍が渚に馬を出したところ、対岸の上杉甘粕隊が弓・鉄砲を撃ち、行く手を阻止。はやる武田軍は隊を乱して川上よ、川下よと千曲川の浅瀬を求めて駆け回った。渡りかかった甲州勢は鉄砲や弓矢に討たれ射抜かれ、兵士らの流す鮮血に千曲川は見る間に赤く染まったという。ついには武田軍は川中島本陣への出馬が遅れ、副将武田典厩(てんきゅう)信繁、山本勘助らをはじめ、多くの将兵を失うこととなった。


十二ヶ瀬から千曲川上流を望む

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

松代町岩野の西側、篠ノ井小森十二河原の千曲川の浅瀬である。同地に建御名方命を祭る十二宮(じゅうにのみや)があった(『県町村誌』小森村)。十二ヶ瀬はこの宮からついた。「十二河原」は、篠ノ井小森区、「古犀川(こさいがわ)」地籍にある字(あざな)である。

戦国期ころまで犀川は、千曲川に向けて乱流していた。このころの犀川の支流に御幣川(おんべがわ)・原瀬川・戸部瀬川があった。犀川本流は、あるときは高瀬川となり、支流が本流となって川中島を乱流していた。十二ヶ瀬も戌ヶ瀬(いぬがせ)と同じく、古犀川によって形成された浅瀬である。川中島には「古(小)犀川・河原・石原・砂原・川越・土手・堤」など、犀川乱流時代の名残りを留める地名が多い。篠ノ井小森地籍「古犀川」の北接に「川越(かわごえ)」地籍がある。長野南警察署所在地である。

9月9日、千曲川を渡った上杉1万3千の将兵のうち、千人の兵は甘粕近江守(あまかすおうみのかみ)指揮のもと、戌ヶ瀬・十二ヶ瀬に留まり、妻女山(さいじょざん)夜襲の武田啄木鳥(きつつき)隊に備えた。直江山城守(なおえやましろのかみ)は小荷駄(こにだ)奉行として千人を引き連れ、犀川を渡河するために本隊を去った。残りの越後軍1万1千が謙信指揮のもと、朝霧の晴れるを待って、武田軍に奇襲攻撃をかけた(『甲越信戦録』)。

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