猫ヶ瀬
山本勘助が討ち死にした永禄4年(1561)の第4回川中島合戦。「啄木鳥(きつつき)の戦法」により妻女山(さいじょざん)を攻撃するはずだった1万2千の武田軍(啄木鳥隊)が、上杉謙信に裏をかかれたため、急いで信玄本陣の八幡原へ駆けつけようと、上流の戌ヶ瀬同様、隊を乱しながらかろうじて渡った千曲川の瀬といわれる。
この時、妻女山から信玄本陣の八幡原まで最も近い十二ヶ瀬では上杉軍甘粕隊に迎撃され、駆け回った末に渡ることができた瀬だが、雨宮渡、十二ヶ瀬、さらには戌ヶ瀬よりも遠回りであった。
山本勘助が討ち死にした永禄4年(1561)の第4回川中島合戦。「啄木鳥(きつつき)の戦法」により妻女山(さいじょざん)を攻撃するはずだった1万2千の武田軍(啄木鳥隊)が、上杉謙信に裏をかかれたため、急いで信玄本陣の八幡原へ駆けつけようと、上流の戌ヶ瀬同様、隊を乱しながらかろうじて渡った千曲川の瀬といわれる。
この時、妻女山から信玄本陣の八幡原まで最も近い十二ヶ瀬では上杉軍甘粕隊に迎撃され、駆け回った末に渡ることができた瀬だが、雨宮渡、十二ヶ瀬、さらには戌ヶ瀬よりも遠回りであった。
岡澤先生の史跡解説
岡澤先生のプロフィール猫ヶ瀬は篠ノ井杵渕(きねぶち)の西端の瀬。この地籍に「猫島(ねこじま)」がある。かつての犀川(さいがわ)支流原瀬川の下流に辺り、神田川排水機場付近にあった千曲川浅瀬である。妻女山(さいじょざん)から八幡原の武田信玄本陣に出るには、十二ヶ瀬(じゅうにかせ)、戌ヶ瀬(いぬがせ)を渡るより約2.5Km ほど遠回りになる。