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広瀬(陣ヶ瀬)

カテゴリー:武田軍関連 | ◇アクセス

読みは「ひろせ」、「じんがせ」。永禄4年(1561)、9月10日早暁、山本勘助の啄木鳥(きつつき)戦法を採用し、妻女山(さいじょさん)の謙信を攻めるべく二手に分かれて海津城(かいづじょう)を出陣した武田軍。平原には濃い霧がたちこめ、武田の旗本軍は、千曲川の広瀬をわたり、その霧の底を這うように幅広い横隊となって展開していった。

信玄が8千の将兵を率いて八幡原に本営を陣したときも、激戦を終えて海津城へ引き上げるときもこの瀬を渡ったと伝えられている。

現在の上信越自動車道長野インターから八幡原(はちまんぱら)に向かう松代大橋付近の浅瀬で、江戸時代には松代藩七渡しの一つ「寺尾の渡し」もあったという。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

松代城は千曲川を防御濠として築城された。そのため、寛保2年(1742)の千曲川の大満水により、城地は水没するなどの大被害を被った。そこで城を水害から防ぐため、松代藩は千曲川の瀬直しをおこなった。延享年間(1744~48) 、小森と東福寺の村境付近から中沢村辺りにかけて、東方に向けて掘割し、千曲川の瀬直しをした。このため関崎の出張りにかけて、千曲川の流路は大きく変わった。天文22年(1553)から、永祿7年(1564)の川中島合戦当時の千曲川は、ほぼ現在長野電鉄屋代線の敷設されている辺りが、河川敷と思われる。したがって、史跡や地名など残っている瀬は、周囲の地形から確認することができるが、多くは耕地となり、確かな伝承もないので推測の域をでない。

「瀬」は川を徒歩で渡れる浅いところをいう。「広瀬」は当時の里人たち誰でも認知し、納得できた広い瀬である。瀬は渓流が千曲川に落ち入る下流付近に形成され易い。渓流で搬出されたがれきが堆積するからである。

海津城の信玄が「広瀬」を渡り、八幡原に本陣を構え、また、合戦後、広瀬を渡って高畑で勝ちどきの儀式を行った「広瀬」。この付近で千曲川に落ち入る渓流は、神田川、関屋川、蛭川、藤沢川(蛭川支流)のみである。現松代大橋の下流付近と考えるのが至当であろう。この広瀬より下流、関崎(せきざき)の出張りまでには、瀬を形成するような目立った渓流はない。松代町東寺尾区に「高畑」地籍がある。

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