板垣信方(板垣駿河守信方)の墓〈板垣神社〉
カテゴリー:武田軍関連 神社・寺 供養塔・墓 | ◇アクセス
板垣神社
天文17年(1548)、村上義清(むらかみよしきよ)との上田原合戦で散った武田家の重臣・板垣信方(いたがきのぶかた)。武田信虎・信玄の父子二代に仕え、天文11年(1542)諏訪攻略の副将になって采配をふるい、攻略後諏訪郡代となって、伊那・北信濃への侵攻を押し進めた。青年信玄のよき補佐役として信頼のおける武将であったといわれる。そして、山本勘助にとっては、武田家への仕官を仲介し、由布姫・勝頼を庇護してくれる一番の理解者でもあった。
上田原合戦で先陣をつとめた板垣信方は、敵陣に深く入り込み奮戦、下之条付近において壮絶な死を遂げたという。
板垣信方の墓は、戦いが繰り広げられたであろう田地の中、地元の人々により板垣神社として祀られ、愛煙家でもあったと伝えられることから五輪塔の墓の前にはタバコが供えられているという。
信方の上田原の討死後、信憲(のぶのり)が父の跡を継いだが、天文21年(1552)晴信の勘気にふれ成敗されて同家は断絶し、於曽(おそ)氏に板垣の名跡を継がせた。川中島の戦いには、板垣の旗はなびかなかった。信玄に攻め滅ぼされ、あるいは、勘気に触れ成敗されて断絶した名跡を継いだ者には、仁科盛信(にしなもりのぶ・勝頼異母弟)、高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょう※まさのぶ・春日昌信)らがいる。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。
板垣信方に討死を決意させた動機は何であったのだろうか。『甲越信戦録』に、「板垣駿河守信方は清廉潔白の勇士で、晴信公のおぼし召しも厚く、諸士の上にたって非義ある輩は正しく成敗するので、恨む者も多かった。信玄公は信方が高邁すぎるため案じられていた。あるとき、板垣信方の嫡子、弥治郎信憲に晴信公は御詠歌『誰も見よ満ればやがて欠く十六夜の月』と直筆した扇子を賜った。弥治郎は父を招き見せた。これを見るより信方ははらはらと涙を流し、『我、君の名代を勤めるゆえに、自然と威勢もよく、君もこれをご心配された御歌であろう。実に慎むべきことは、結果に満足して、それを生み出した努力を忘れがちになることである。そうはいっても、この後とも不忠不義をすべきでない。この後の戦いには華々しく討死しよう。その方は父がこの思いを継いで、忠節を尽くすように』と教訓し、世の無常を味気なく思っていた。この言葉に違わず、上田原の合戦で深手を負いながらも、群がる村上勢の中に討って出て討死した」と綴っている。