生島足島神社
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万物を生み育て、満ち足らしめる日本総鎮守と仰がれ、摂社(下社)には諏訪明神をまつる信州屈指の古社。
寺社勢力を取り込み、より多くの神仏の加護を得ようとした武田信玄は、天文22年(1553)、東信濃攻略後、同社に社領を安堵し、第4次川中島の戦い前の永禄2年(1559)には上杉謙信に対する戦勝祈願をした。
信玄は家臣の結束を固めるため、武将らに忠誠を神仏に誓わせた起請文[きしょうもん]を同社に奉納させた。これらは信玄直筆の願状とともに国の重要文化財に指定され、現在一般にも展示公開されている。なお、境内にある樹齢800余年の夫婦欅[めおとけやき]は、夫婦円満・子宝安産・延命長寿の御神木として有名。
生島足島神社の祭神は、宮中に奉斎される生島神・足島神である。神殿は覆屋(鞘堂[さやどう] )の中にあり、大社造りである。山本勘助が海津城[かいづじょう] を築くときに、水除け八幡として勧請したという八幡原史跡公園内にある八幡社の拝殿は、この神社の覆屋を移築したと伝えている。祭神の生島神の「生」は、万物を限りなく育成・満ち足らしめるを意味し、「島」は国土を意味する。足島神の「足」は、物事の完全充足を意味する。両神とも満ち足りた豊かな国土を神格化した神である。
武田信玄が、永禄9年から10年(1566~1567)にかけて、支配下においた甲斐・信濃・西上野の諸将士2百数十名に忠誠を誓わせた「生島足島神社起請文」83通(県宝)は、中世起請文の代表的なものである。その一例を示せば次のとおりである。
敬白起請文の事
趣意は
一、自今以後、今井次郎左衛門尉と入魂に致すまじき事。
一、向後朋友の調、並びに、徒党立て仕るまじきの事。
一、御屋形様に対し奉り、聊も御後聞き覚悟存ずべからず候の事、もし右において偽り候はば、梵天・帝釈・四大天王・八幡大菩薩・諏訪上下大明神・三嶋大明神・飯縄戸隠大権現、殊には甲州一二三大明神の御罰を蒙り、今生においては癩病を受け、来世にては無間に堕在致すべきものなり。よって件の如し。
永禄九丙寅八月廿三日 武藤神右衛門尉
常昭 花押
彦五郎殿 (『信濃史料』第13巻)