砥石城跡[といしじょうあと]
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東太郎山の尾根のひとつに構築された堅固な山城で、本城を中心に北に枡形城[ますがたじょう]、南に砥石城、南西に米山城[こめやまじょう]を配し、総称して砥石城と呼ぶ。
砥石城 遠景
左から米山城、砥石本城、
枡形城が連なる
東信濃の豪族・村上義清[むらかみよしきよ]の小県[ちいさがた]地方における重要拠点のひとつで、天文19年(1550)、武田軍が義清を攻めて総崩れとなった「砥石崩れ」の舞台。天文17年(1548)上田原の戦いに続く武田信玄の大敗北となった。
しかし、翌天文20年(1551)、難攻不落を誇った砥石城も真田幸隆の裏工作により、あっけなく攻略されてしまう。この時期から武田軍は正面からの武力攻撃のみでなく、村上氏の周辺勢力を味方に取り込む知謀戦を積極的に展開し、義清は次第に北へ北へと追い詰められてゆく。
南西の米山城[こめやまじょう]には、白米を馬の背に流して水が余るほどあることを敵に見せかけたという白米城伝説も残されている。
城跡群からは真田地域や上田一帯から北佐久方面を一望できる。
砥石城跡
米山城跡
砥石城は、戸石城とも表記する。城郭は北寄りの一段高いところに、南北32m・東西25mの長方形の本郭跡があり、四方を切り下げて台状になっている。北に枡形や砥石の要害がある。要害には、郭・帯郭跡が残っている。城跡は県史跡に指定されている。
砥石城は中世、真田氏が上田地方を押さえる外城として築城した。天文10年(1541)葛尾に拠る村上義清によって、城は攻略され、真田一族は離散した。幸隆は武田氏を頼って甲斐に走った。その後、村上氏の小県、佐久地方に備える拠点として再築され、額岩寺光氏[がくがんじみつうじ/額願寺とも]、 山田国政[やまだくにまさ] らに守備させた。
天文19年(1550)9月1日、武田晴信は、この城の攻略にかかったが大敗し、横田備中守高松[よこたびっちゅうのかみたかとし]をはじめ、千人余が討死した。晴信は危ないところを助かって、諏訪に落ちのび、10月7日に甲府へ帰った。この敗戦について『妙法寺記』に、
「この年(天文19年)の9月1日に信州砥石の要害を御除け候とて、横田備中守をはじめとして、随分衆千人計り討死なられ候。されども御大将は、よく引きたまわり候」
と記している。同20年(1551)5月26日、真田幸隆は砥石城を不意に攻めて城を奪還した。村上氏の滅亡は、この砥石城を失ったことが要因のひとつとなった。
天文17年(1548)の上田原、同19年(1550)の砥石の敗戦以降、信玄は義清との武力戦を避け、諜報活動による戦術へと転換していった。この陰には山本勘助が大きくかかわっていた。