史跡ガイド

史跡紹介

葛尾城跡[かつらおじょうあと]

カテゴリー:武田軍関連 城・館 | ◇アクセス


葛尾城跡本郭


武田信玄と激戦を繰り広げた村上義清の居城跡。葛尾城は五里ヶ峰[ごりがみね]から南に伸びた葛尾山頂が本郭で、その南には出城の姫城[ひめじろ]がある。

地形を生かして本丸、二の丸などを深い空堀で区切った要塞も、天文22年(1553)4月、武田軍の攻撃で自落した。義清は高梨氏を通じて越後の上杉謙信を頼り、ここから長い川中島の戦いが始まる。上杉謙信は信濃の豪族たちの求めに応じて川中島に出兵。謙信率いる上杉軍は、布施・八幡の戦いで武田勢を撃破し、義清は葛尾城と旧領を一時取り戻したが、すぐにまた武田軍に塩田城を攻められ、越後へと敗走する。


葛尾城跡から上田方面を望む


葛尾山。矢印は葛尾城跡の位置

城跡へは麓の坂城神社から遊歩道が通じており、山頂には桜の木が植えられた小公園が整備。坂城・戸倉上山田の街並みや千曲川の雄大な流れが一望できる。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 村上氏の基盤は、塩田平と坂城以北の更埴地方で、葛尾城は南から攻める敵を想定して築城されている。北側には、千曲川右岸を善光寺方面に行く往還道があった。この道は戦国期には、搦め手[からめて]の北を通り、刈屋原[かりやはら]と磯部[いそべ]の境に下り、坂木の渡し(現・笄橋[こうがいばし])から千曲川の右岸に出た。したがって、搦め手を通るこの道は、合戦時は輸送路ともなり、逃げ道にもなった。

 天文22年(1553)4月、武田軍はこの往還道から攻めた。千曲川右岸の支えの城、狐落城[こらくじょう]・荒砥城[あらとじょう]が相次いで落城した。葛尾城も守将滝沢能登守が城門から撃って出た隙に、武田に内通していた重臣の計略で自落した。このとき塩田城にいた村上義清は、上杉景虎(謙信)の5千の援軍を得、葛尾を奪還した。この戦いを布施の戦いという。上杉軍が越後に帰陣した8月、再び葛尾城は武田軍が攻め落とし、義清は塩田城を撤退し、景虎を頼って越後に逃れた。この布施の戦い後、武田晴信(信玄)は葛尾の出城、岩崎城(※)を川中島攻略の拠点にし、天文22年(1553)から永禄7年(1564)まで、あしかけ12年、前後5回に及ぶ川中島の戦いが始まるのである。

 葛尾落城は「灯の松」「比企尼石」[びくにいし] 「笄の渡し」「鬼が島」など義清夫人にまつわる哀話を生んだ。対岸の上平には、義清夫人が自害したと伝える「姫宮の跡」がある。

※補足
姫城は村上義清の頃から出城でしたが、同じ尾根の戸倉寄りにもう一つの出城・岩崎城があり、これを武田方が整備したとされています。

アクセス
しなの鉄道坂城駅より徒歩約1時間。坂城神社近くに登り口の案内板あり