一 海津評定のこと |
海津城の武田信州衆、謙信の出馬を知り、軍議を開く 財は一つ身の宝、臣は国の宝である。齋(せい/中国の春秋時代の一国。「斉」。)の威王(呂尚=太公望)も述べているように、優れた名君には明臣がいる。越後には宇佐美、柿崎、直江、甘粕の四人がいる。同じく甲州には馬場、内藤、小幡、高坂の四人がいる。
上杉謙信公出馬の様子は、いち早く甲州の間者、駒沢七郎・新三郎から海津城に報告された。これを聞いた高坂弾正は、信州衆の諸将を招集し、「信玄公のご出馬を待たずに、小田切・大田切の山峡で謙信の軍勢を待ち伏せして一合戦したらどうか」と相談した。
これに対し馬場民部は、「日本無双と呼ばれる名将を迎え討つに待ち伏せとは卑怯であろう。利のない時は、かえって敵に威勢をつける。我々は、この城さえ敵に渡さぬよう堅固に守ることがご奉公というものでござろう」という。各々この意見に賛同し、弓、鉄砲で所々を固め、上杉軍の攻撃に備えた。
謙信公、海津城に目もくれず、妻女山に布陣す
一方、信濃に入った上杉方は、兵糧運送の人夫が牟礼宿(上水内郡飯綱町)で謙信公本隊と分かれ、善光寺に駐留。謙信公は八千人余りの将兵を引き連れ、牟礼宿から神代(長野市豊野神代)を経て、布野(長野市朝日布野)で千曲川を渡り、川田宿(長野市若穂川田)の飯山通りに勢を進めた。軍旗を風になびかせ、大室(長野市松代町大室)より可候(そろべく)峠の山道を越えられた。
この時、直江山城守が「このまま海津城を攻め落とすのが得策ではないでしょうか」と勧めたが、謙信公はからからと笑って、「弱兵の城を攻めるのは、卑怯未練の戦、臆病者のすること。こんな城は問題ではあるまい」と素通りされた。鐘や太鼓の音を打ち鳴らし、ひるがえる越軍の大小の旗は天をも貫く勢いであった。このまま全軍を鋤崎に進軍させ、鰐沢、小鮒沢を経て、多田越えし、清野に入り、妻女山に本陣を置いた。
※可候峠(大室より加賀井へ通じる峠)・鋤崎(東条の西南に出る出崎)・鰐沢(関谷川)・小鮒沢(表柴町の中を流れる川)・多田越え(竹山の南、法泉寺の北の道)は、いずれも長野市松代町。
妻女山布陣における上杉隊の編成
一の手(一番隊)
指揮官……直江山城守兼続 :赤坂下に陣した。
副将……新発田尾張守(しばたおわりのかみ)/安田掃部頭(やすだかもんのかみ)/鬼小島弥太郎/新津丹波守
二の手(二番隊)
指揮官……甘粕近江守数直(景持) :清野出崎を陣として、月夜平まで兵を繰り出す。
副将……北条安芸守/柴田周防守(すおうのかみ)/杉原壱岐守(いきのかみ)/本庄越前守
三の手(三番隊)
指揮官……宇佐美駿河守定行 :岩野十二河原に陣した。
副将……飯森摂津守/桃井讃岐守/辛崎左馬亮(さまのすけ)/長尾右衛門尉/松川大隅守
四の手(四番隊)
指揮官……柿崎和泉守景家 :土口笹崎に陣した。
副将……柏崎日向守(ひゅうがのかみ)/須賀但馬守(たじまのかみ)/毛利上総介(かずさのすけ)/鬼小次郎
このほか、関川、関山、野尻、柏原の兵士はみなこの隊に属した。
五の手(五番隊)
指揮官……村上入道日龍寺義清 :雨宮の神社に陣した。
副将……高梨摂津守(せっつのかみ)/井上備後守/綿内内匠頭(たくみのかみ)/須田相模守
大将、謙信公は妻女山に本陣を設け、大旗十八本を立て、左右には山吉玄蕃頭、平賀志摩守を控えさせ、四武の備えと陣立てを厳重に設けた。
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二 甲州方勢揃いのこと |
信玄公、総勢二万余人で信州に出陣す
上杉勢の出馬は、櫛の歯をひくようにすばやく甲州に告げられた。そこで信玄公は、八月十八日に躑躅(つつじ)ヶ館をご出発された。御歳42歳の時である。
出陣のお供には、
・御嫡子
武田太郎義信
・御連枝
武田典厩信繁、武田信連入道逍遙軒
・家臣
長坂入道長閑(ちょうかん)、穴山伊豆守信良、
飯富兵部少輔虎昌、山形三郎兵衛昌景※、
内藤修理亮昌豊、原隼人正正種、
山本勘助入道道鬼、両角豊後守昌清、
馬場民部少輔信房、甘利左衛門尉清晴、
小山田備中守昌時、小山田弥三郎信重、
小幡尾張守信定、真田弾正忠幸隆入道一徳斎、
跡部大炊之助(おおいのすけ)勝輔、浅利式部少輔信晴、
小笠原若狭守長詮(ながあき)、一条六郎信秀、
相木市兵衛尉政友(あいきいちべえまさとも)、
芦田下野守(しもつけのかみ)幸成、
望月甚八郎重民(しげたみ)、今福善九郎成就
らを従え、総勢二万余人。上諏訪に到着すると大祝義祝(おおほうりよしのり)が五十騎で馳せ参じ、和田峠を越えると、出迎えとして善光寺を領する栗田永寿軒、小柴入道慶順、更級郡八幡の宮の神主松田何某、かれこれ三百騎が甲州軍に加わった。
※山形三郎兵衛昌景=山県三郎兵衛尉昌景
甲州勢、茶臼山に布陣し、上杉軍の退路を断つ
長窪(小県郡長和町長久保)より腰越(上田市丸子町腰越)に参られると、さらに出迎えの浦野民部左衛門遠隅、室賀兵庫頭入道一葉軒は、
「謙信は大胆にも海津城に近い妻女山に陣を取り、軍卒は川辺に配して、矢代(千曲市屋代)より北への往来を押さえております。わが君は地蔵峠(上田市真田町より長野市松代町に通じる峠)を越えて海津城にお入りなるのがよろしいでしょう」と勧めた。
信玄公はしばらく思案され、
「犀川、千曲川の両河を越えて深々と陣を取るとは、不利な陣構えをしたものだ。それを承知で布陣したからには、なにか深い策略があるに違いない。ここから川中島に出るほかの道はないか」と尋ねた。
浦野、室賀の二人は「拙者どもの領地より道がございます」といって、両人を先達として、※小牧山を越え、室賀峠より山田の里を経て、万治が崎より若宮八幡に至り、猿ヶ馬場(さるがばんば)を左に見て、有旅(うたび)村の上にある茶臼山に本陣を構えられた。茶臼山は茶臼ヶ城という。
しばらく茶臼山に陣取り、川中島は甲州兵で満ちあふれた。甲州方は越後兵を一人も逃さじと、千曲川の岸に二十六段に布陣した。横田、小森、東福寺、水沢まで固めてしまったので、越後方は善光寺への通路が断ち切られた形となった。海津城には高坂弾正が守り、乱杭(らんぐい)、逆茂木(さかもぎ)を構え、軍兵は弓と鉄砲で上杉方に備えた。
※小牧山(上田市小牧)、山田の里(千曲市上山田町本村・温泉区)、万治が崎・若宮八幡(千曲市戸倉町更級)、猿ヶ馬場(東筑摩郡筑北村坂井・中央線冠着トンネル山頂付近にあった旧峠)、茶臼山(長野市篠ノ井岡田)、有旅(長野市篠ノ井有旅)
剛気の越後勢に、信玄公、山本勘助に策を立てさせる
信玄公は越後方の様子を探るために、初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)を謙信公のもとへ遣わした。川向こうの使者は船に乗り、目印として日傘を差す。相手側でも使者とわかるため、弓、鉄砲を射かけてはこない。
初鹿野は、使者迎えの和田喜兵衛に、「貴殿は両川を越えて御陣を取られたこと千勇万武と存ず。某(それがし)も茶臼山に陣取りをいたしたが、貴殿は海津城を攻撃なされるのか、それとも某と直戦なさるおつもりか」と信玄公の口上を申し伝えた。
謙信公はこれを伝え聞き、信玄は当方の戦意を探るために使者を遣わしたことを見抜き、「仰せの趣ごもっとも。しかしながら某(それがし)は客人、貴殿は亭主なれば、いかほどにもご馳走は貴殿よりお始めくだされ。我らは北海に慣れており歯の根も達者なれば、ご心配ご無用。ご用意の献立をお待ちいたしております」と、信玄の攻撃をいつでも受けて立つ旨を返答した。
初鹿野は謙信公の勇気は鬼をもつかみ挫かんばかりと感じた。その報告を聞いた信玄公は、山本勘助を呼び出し、「越後方は、はなはだ剛気である。敵の戦意を弱らす策があれば講じよ」と命じた。
勘助、紙の旗と夜火で大軍を装い、敵勢の戦意を挫かんとす
そこで山本勘助は、周辺の村々に触れを出して紙旗を作らせ、所々に立てさせた。また、夜は夜で山々に大かがり火を数十カ所で焚き立て、大軍がたむろしているように装った。
これを見た越後勢、「なんと凄まじい大軍か!」と大いに驚き、次第に勇気を失っていった。ことに自国を離れ、犀川、千曲川の大河を越えたこの地で、通路は止められ、兵糧も乏しくなるだろうことを思うと、一層士気を失った。
おびえ慌てる家臣たち、悠然と詩を吟じる謙信公
ところが、大将の謙信公は、妻女山より四方を眺め、自ら琴に合わせ詩を吟じ、悠然としていた。大将のこの様子にたまりかねた越後の四臣は密かに内談して、宇佐美と直江の両名が本陣に参じて謙信公に申し上げた。
「御覧のように敵に回りを囲まれ、善光寺への通路も断ち切られています。どうか、前々から軍議のあったように、早々に国元への援軍要請を申し遣わしてくだされ。このままでは、味方の不利な点が三つございます。第一点は、出て戦おうとするには、前は大河、敵の備えも厳しく、進退の自由がききません。第二点は、このまま対陣が続けば敵に気を呑まれ、次第に戦意を失ってしまいます。第三点に、このように善光寺への通路を押さえられてしまったので、長く陣すれば、兵糧も乏しくなり難儀します。只今の軍中の米では10日以上はもちません。わが君はこの状況をどのようにお考えですか」。
謙信公の剛気に、将兵一同、士気を取り戻す
これに対し謙信公は、次のように答えた。
「お前たちの申す援軍を呼び寄せる術は回り道である。信玄ほどの者が、援軍に対する策がなかろうはずはない。わが方の加勢が来たならば、信濃勢にこの川中島を守らせ、甲州勢がわが援軍を破ろうとする備え立てである。兵糧が十日分あるなら騒ぐことはない。その間に善光寺の米を取り寄せる手だてもあろう」と言われた。
直江は、「お言葉を返すようですが、もし信玄が信濃勢にここを守らせ、手薄の越後に攻め入ったらそれこそゆゆしき大事でございましょう」と申し上げた。
謙信公は、「それに気遣うことはない。我が春日山城には二万の軍兵に、一年分の玉矢がある。もし信玄が越後へ攻め込んだら、われらも甲州へ攻め込むまで。安心せよ」といわれた。この言葉に宇佐美、直江は返す言葉もなく本陣をあとにした。御大将の剛気の様子を伝え聞いた兵たちは、十分の勝利ありと感じ、にわかに勇気を取り戻して平然としていた。 |
三 信玄海津引き取りのこと |
信玄公、天文を見て茶臼山から海津城に入城す
信玄公は忍びを入れて敵の様子を探らせた。忍びの者が立ち戻って、
「越後方はどういう戦術でしょうか。少しも弱る様子はなく、その上、謙信は小鼓を打ち、近習に唄わせ、軍兵も勝利を信じて少しも動揺しておりませぬ」と報告した。
信玄公は、
「そうであろう。我、天文を考えるに、初めは東方の将星(謙信の星)は光薄く、黒雲が妻女山にかかっていたが、今また客星はこうこうと光輝き、黒雲も晴れてしまった。このまま茶臼山に陣するのは無益、海津の城に入ろうぞ」といって、茶臼山の本陣を引き払い、広瀬の渡しより海津城に入城した。
川中島に備えていた甲州勢が海津城に引きあげたので、越後方は気も晴れ晴れとし、さすが大将、謙信公と感じ入った。
山本勘助参上、啄木鳥(きつつき)の戦術を提唱す
海津城では、飯富兵部と馬場民部が信玄公の御前に出て、
「信濃は大方が御手に入り、自国も同然。膝元まで敵を引き寄せて戦うことは十分に勝機があります。その上、味方は多勢でありながら、上杉は良将ゆえに恐れをなすと心ない輩にあざけられるのも悔しいかぎり。一刻も早く合戦を始めるべきと存じます」。馬場民部も、「戦いが長引けば、味方の戦意も損なわれ、越後の援軍が来たとなれば取り返しがつきませぬ。早々に軍法(戦術)をめぐらせた方がよろしいでしょう」と申し上げた。
これに対し信玄公は、
「それは自分も同じ考えだ。しかし折り悪く軍評定の一人、小幡山城守は病死し、原美濃守も戦いの傷が癒えず召し連れなかった。この上は、山本勘助を呼べ」と申しつけた。勘助が御前に出ると、信玄公は「どうだ、勘助。今度の戦いはいかなる戦術にて勝利できようか。お前の意見を聞きたい」と問われた。
勘助は恐れ入って、
「この度の上杉の陣立てを見るにつけ、謙信は、生死をこの一戦にかけている覚悟と思われます。そこで私の考えでは、啄木鳥(きつつき)という鳥は、木をつついて餌の虫を獲る時に、朽ちた穴にはかまわず、後ろの方をくちばしで叩き、虫が驚いて前の穴に出てくるのを獲り食います。今度の戦術もこれに等しいかと思います」と申し上げたところ、信玄公も明智の大将であったので、察しはついて、「では、敵の後から攻めて、逃げて来るところを、前で討つ戦術か。」と念を押された。
武田の啄木鳥隊十頭、夜襲の決行を待つ
勘助は、「常の軍法ではなかなか勝利は手にできないでしょう。そこでこの啄木鳥の戦術ですが、半進半退の繰り分けというものです。味方二万余の兵を二手に分けて、一万二千を大正(たいせい)の備え、八千余人を大奇(たいき)の備えとし、一万二千の大正をもって夜中に妻女山に押し寄せ、不意に攻め込んだならば、さすがの謙信もこれに驚いて山を下り、川を渡って逃げるでしょう。味方八千余人は先立って川中島に備えを立て、越後勢が犀川方面へ引き取ろうとするところを待ち構えて、ことごとく討ち取ることは、礫(つぶて)をもって鶏卵を打ち砕くと同じ。味方の勝利は疑いありませぬ」と申し上げた。
信玄公ももっともと思い、「今度の戦いは、山本勘助の采配に任せる」と言われた。そこで勘助の采配によって、一万二千人は妻女山へ向かうことになった。
夜襲隊を率いる武将十名は、高坂弾正、飯富虎昌、馬場信房、小山田昌時、甘利清晴、小山田信重、真田幸隆、相木政友、芦田幸成、小幡信定らである。夜討ちは九月九日の夜、決行することにした。
謙信が千曲川を越えるのは十日の辰巳の時分(午前9時頃)だろうと予測し、海津の城はその用意を急いだ。 |
四 謙信軍配のこと |
立ちのぼる炊煙の異変を見て、謙信公、武田の夜襲を察知する
九月九日、その日も暮れようとして、月がほのかに東山を照らすころ、謙信公が妻女山より海津の方をはるかに見下すと、城内より立ちのぼる煙が見えた。
すぐさま謙信公は、直江、甘粕の両将を本営に呼び寄せ、海津城内から立ちのぼる炊煙を指し、
「あれを見よ。海津の城に煙が数条立ちのぼるは、飯炊く煙と思われる。察するに信玄は明日必ず戦いを挑んでくるものと思われる。甲信両国の軍勢を二つに分けて、一手が今夜、夜襲をかけてくるであろう。決して油断してはならぬ」と言われた。
直江は、「君の仰せではございますが、あの煙は明日の兵糧の用意。今夜、敵の夜襲はござらぬでしょう」と申し上げると、謙信公は顔色をかえ、「お主はまだまだ未熟であるな。明日の戦に用いる兵糧を炊くならば、子の刻(午前零時頃)を過ぎてからである。今は戌の刻(午後8時)であるのに兵糧の用意をするのは、夜襲の計画があるからだ。繰り分けの術という、勢を二つに分けて押し出したところを討つ戦術であろう。我らは夜討ちの来る前に、川中島に出撃し、決戦しようぞ」と言われて作戦を指示した。
上杉本陣、妻女山引き上げにおける八カ条
一、味方の兵には即刻食事をとらせ、明日は一人に三人前の食糧を持たせること。何時と定めず、川中島へ出撃の折りは、一手一手の大将が命令して、下々が騒がぬようにすること。
一、前もって甲冑を着用し、わらじの緒を固くしめ、持ち道具は各人使い慣れたものにすること。
一、下々の者へは、明日越後へ帰陣、時間がないので、夜分の出発もあると知らせよ。敵の忍びの者も入ることがあるので、事実を語ってはいけない。
一、妻女山を立ち退く時もかがり火は強くたき、旗は紙旗にすり替え残して、夜討ちの輩を欺かしめよ。
一、あとには百人の勇士を残し置き、忍びの者が来たら討ち取ること。
一、脇備えの平賀志摩守と山吉玄蕃頭は、勝負にかまわず敵の中へ飛び入り、信玄の居所を見つけ次第、合図の旗を出すこと。
一、予が馬回りは大勢無用。和田喜兵衛、宇野左馬之助、和田兵部らほか、十二騎と定める。
一、川中島に出撃する時の備え立ては、車懸り(くるまがかり)の戦法で行うこと。
以上の八カ条、直江、甘粕の両将は、心得て本営を辞し、下山して全軍に指示をした。
「明日、御大将は御帰陣につき、即時荷物をしまうこと。時間もないので、夜更けの出発も考えられる。めいめいその用意をしておくこと。もし、敵が途中を遮ることがあったら、切り破って善光寺に結集すること」。
越後勢は、明日帰陣と聞いて、大いに喜んだ。
上杉軍、鞭聲肅肅(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る
そうとも知らぬ武田方の妻女山夜襲隊は、子の刻に食事を済ませ、月が山の端に入る子の下刻(午前1時頃)に海津を出た。道筋は西条の入より、唐木堂(坂城日名の方へ出る道)に登り、そこから右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より謙信の本営に夜襲をかける。この道は、難所ではあったが、苦痛をこらえて松明(たいまつ)※を掲げて、峰に登り、谷に下り、あるいは山腹を横切り、妻女山本営を目指して進軍した。
越後方は、月が山に沈むのを待って、静かに下山の用意をして、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を後にした。直江、甘粕、宇佐美、柿崎の諸将は兵を指揮し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬を渡った。謙信公も続いて戌ヶ瀬を越えた。直江山城守は、小荷駄奉行として、人夫に犀川を渡らせ、自分は丹波島に留まった。甘粕近江守は一千人で東福寺に留まり、妻女山に向かった敵兵が出し抜かれて、やむなく川を渡ろうとするのを阻止せんと川端に陣を備えた。
※忍び松明といって、煙だけが出る(風に向かって振ると火が出る)ものを使ったとされる。 |
五 川中島の戦い始まること |
敵か味方か、霧の川中島に響く人馬の音
信玄公、浦野民部を斥候に出すが、判断を誤る
九月十日朝、千曲、犀川の霧は深く、もうもうとして、身の置くところもわからなかった。武田方はまだ備えも固まらないうちに、人馬の音がおびただしく、近くに聞こえる。信玄公は耳をそばだて、この時刻に敵の来るはずはなく、敵か味方かと不審に思い、浦野民部に物見を命じた。
浦野は馬に乗って駆け出したが、すぐさま引き返し、「馬の音は敵ですが、犀川へと赴いています。たとえ合戦になりましょうとも、たいしたことはありますまい」と、信玄公の顔を厳しく見つめて申し上げた。謙信の奇襲の事実を言葉に出して報告すれば味方の将兵の動揺を招くので、目で奇襲攻撃であることを伝えたのである。あっぱれ浦野は物見巧者である。
しかし、信玄公は浦野の目配せに気づかず、「謙信ほどの大将が、戦をせずに兵を引きあげることはない。それは車懸りという戦術だ。浦野が見間違えたのだ」と、再度、室賀入道に物見を命じた。その報告は、「ご賢察の通り、敵は車懸りの戦法で、将と将との雌雄を決しようと進んでおります。即刻、備えのお立て替えを」と申し上げた。
これを聞いた武田勢は、味方はわずかな備えの上、猛虎のような越後勢が車懸りで攻撃してきたとあらばもはや勝利はあるまいと逃げ腰になってしまった。信玄公はこれを見て、浦野の目配せの意味を知り、「南無三宝」と驚かれた。
看破されたり、啄木鳥の戦法。山本勘助、討ち死にを覚悟する
しかし、さすがは名将、四頭八尾の包囲攻撃はこの時であると考え、山本勘助を呼び寄せ、「敵はすでに車懸りの戦法で攻撃してきている。お前はこれに向かって、箕(みの)の手に備えて敵の襲撃を止めよ」と命じた。しかし、箕の手という戦法はこれまでの兵書にはなく、信玄公が即妙にいわれた戦法であった。
山本勘助は信玄公の命令に従いながらも、とても勝利のないことを悟り、自分の作戦が失敗したことの責任を取って討ち死にする以外にはないと覚悟を決めた。勘助は、典厩の旗印を見て、敵を欺くために信玄公の旗印と取り替えた。そして、第一番に押し寄せる上杉勢に突入していった。
激突!甲越両軍、決戦の火ぶたが切られる
武田本営左陣の典厩信繁、勘助が敵に向かって進むのを見て、同じく馬を進めた。続いて両角豊後守、山形三郎兵衛らも、我も我もと馬のくつわを並べて敵に向かった。
上杉軍の先駆け、柿崎和泉守景家は大根(おおね)の大まといを真っ先に押し立て、一千余人で典厩を目がけて槍を構えて突撃してきた。甲州勢も柿崎を討ち取ろうと同じく槍を合わせ、こうして壮烈な迫兵戦の幕が切って落とされた。
双方の叫ぶ声、天に響き、須弥山(しゅみせん・仏教の宇宙観で世界の中心にそびえるという山)も崩れるほどである。撃ち合う鉄砲の音は山谷に響いて大激戦となった。さすがの武田勢も、不意を突かれた上に、備えも固まらぬうちの越後軍の猛攻に斬りまくられ、次第に打ち負け、枕を並べて討ち死にしていった。 |
六 典厩並びに両角討死のこと |
武田典厩信繁、黒髪と母衣を息子への形見とす
武田典厩信繁は、敵と戦うこと三度、味方は次第に討ち死にし、とても敵勢を押さえきれまいと思った。その上、兄信玄公の身が危うく見えたので、自分は討ち死にして、信玄公の御命を助け申そうと覚悟を決め、兄の元へ「御覧のごとく、越後勢の攻撃を我らが受け留めておりますが、多勢に無勢、我が方の将兵は皆討ち死にと思います。某(それがし)が不利となりましても決して救おうとは思いなさるな。我らが敵の攻撃を防いでいる間に、勝利の工夫をなされますよう」と使いを送った。
そして最期の用意とて、家臣春日源之丞を招いて、信玄公が法華経の陀羅尼(だらに/真言・呪文)を金文字で書かれた母衣(ほろ)※を手渡し、「この母衣は、信玄公の御筆なれば、私が討ち死にした後で敵に奪われるのは無念。これを持ち帰り、せがれ信豊に渡せよ」と、鬢(びん・耳の上あたりの髪)の乱れ髪を切り、「父の黒髪と、これも形見として渡せよ」と申しつけた。
※母衣・・・鎧の背につけて飾とし、時には流れ矢を防いだ武具。
春日源之丞、やむなく信繁の最後の命に従う
源之丞は胸がつまって涙で眼もくらみ、典厩の馬のくつわをとらえ、
「若君へのお形見のお使いを仰せつけられたことは、ありがたく幸いには存じますが、このような使者は腰抜け武士の勤める役。わが君が討ち死になされるならば、拙者も死出のご案内をいたしとうございます。どうか、ほかの者へ仰せつけ下されよ」と涙を流しながら懇願した。
その時、典厩は顔色を変え、「予のお前に対する期待から申しつけるのだ。お前を国へ帰すのは、せがれ信豊が成長するまで補佐させようと思うからぞ。わが心を無にすれば、この場で勘当ぞ」と叱咤(しった)する。
源之丞はやむを得まいと、主君の身を案じながら涙を押さえきれずに甲州へ立ち帰った。この後、天正3年(1575)、長篠の合戦に武田左馬之助信豊は父の形見の母衣をかけて出陣したという。
典厩信繁は、今は心安らかに討ち死にの支度をし、部下に向かって、
「方々、敵の大将と見たら必ず組んで差し違えよ。雑兵を討って罪を作るな。八幡の神よ、どうか謙信と会戦させたまえ。ただ今討ち死に仕り、兄の恩に報い申さん。」と、高らかに叫んだ。こうして大音声上げて敵の中に飛び込み、「我こそは武田信玄が弟、武田左馬之助信繁なり。我と思わん者は来たって首を取れ」と叫びながら遠慮会釈なく馬を飛ばし、火花を散らして戦った。
稀なる名将・武田左馬助信繁、宇佐美定行の槍に最期を遂げる
甲州方には、内藤修理太夫、望月甚八郎、横合いより駆け入って、典厩の馬前に立ちふさがり、「おのれら雑兵の身分に大将を討ち取られれば、武門の恥である。汝らには我らが相応。甲州者の太刀の切れ味受けてみよ!」と大軍の中へ縦横に斬って回り、越後方をさんざんに斬りまくる。越後勢も斬り立てられて進むことができない。
そこへ遥かに馬を飛ばして駆けさせてきたのが、上杉方の宇佐美駿河守定行である。五百余人を引き連れ、槍を馬の平首に引きつけ、典厩と相戦う。勇猛無双の宇佐美の鋭く突き出す槍に、ついに典厩は脇腹を突かれ、馬より真っ逆さまに落ちて討ち死にする。事実は宇佐美の郎党の鉄砲による最期だったが、大将を鉄砲で討ち死にさせたとあっては畏れあると、定行が槍で絶命させたという。
典厩戦死の場所は中沢(長野市篠ノ井東福寺)である。信繁の死骸は千曲川にころげ落ち、浮き沈みして流れゆくのを、宇佐美の家来が首を取ろうとしたが、典厩の郎党がお首を敵に渡すまいと折り重なって死骸を取り戻し、水沢(長野市篠ノ井杵渕)に葬った。この場所に一寺を建立して典厩寺(長野市篠ノ井西寺尾)と号し、今にいたる。
老将・両角豊後守、信繁の後を追い、奮戦す
両角豊後守昌清は、大わらわとなって奮戦していたが、「典厩殿、討ち死に!」とはるかに聞こえたので、「死生一度皆ありとは申しながら、お痛わしいことよ。今朝よりお討ち死にと申されておられたが、はやくもお最期とは……」と涙をはらはらと流し、「我もお供仕ろうぞ」と、馬に跨り、真一文字に越後勢の中に飛び込んでいった。四方を駆け回り、当たる敵と相戦う。上杉方では、新発田尾張守、新津丹波守、松川大隅守らが両角に挑み斬りあった。両角の死に物狂いの奮戦に、越後方は悩まされ、さっと道をあける。
その時、新発田の郎党、松村新右衛門という剛力者が駆けつけ、大手鉾(てぼこ)で渡り合い、ついに豊後守を押さえて首を取る。遙かにこれを見た甲州方の郎党は敵に首を渡すまいと槍先を揃えて突きかかり、ついに松村を突き倒して両角の首を取り戻した。
両角豊後守が討ち死にした場所は、塔之越(長野市稲里町下氷鉋)という。そこには小さな塚があり、印ばかりの五輪塔が残って、 豊後守の墓と伝えられている。 |
七 山本勘助入道討死のこと |
武田家忠臣・山本勘助、ここにあり
百星の明るさは一つの月の明るさに劣る。また十の窓を開けても、一つの戸の明るさには劣る。まさに勘助はこの月であり、戸といえる人物である。信玄公は常に、「万人の眼は星のようで、勘助の一眼は月のようである」とお誉めになっておられた。
この日、山本勘助は六十三歳。天文12年(1543)、武田家に参って臣下となり、忠勤すること十八年。勘助の戦法によって攻め落とした城は、九か所にもおよぶ。
今日の作戦の裏をかかれ、味方は苦戦。勘助は、一時も早く討ち死にしようと覚悟を決め、玉は砕けても光を失わず、竹は燃えてもこの節を損なわず、名をどうして空しくできようかと心に誓い、敵中に進んで行く。これを見て、原隼人正正種は、勘助に向かって、「主君の大事は今日だけではござらぬ。早まってはならぬ」と声をかけると、勘助は振り返って、「過ぎ往く時は流れのごとし。九思下愚にあたらず※の習い」と最期の言葉を言い捨て、敵勢の中へと馬を飛ばした。
孔子いわく、君子に九思あり。視(み)るは明らかなるを思い、聴くは耳聡(さと)きなるを思い、顔色は温(おだ)やかなるを思い、姿かたちは恭(うやうや)しきことを思い、言は真心を思い、事は敬(うやま)うを思い、疑いは人に聴くを思い、怒りは災いを思い、利益は義を思う。※
※「九思習」より。自分の決意した思いは理想とするところで、愚かでないということ。『論語』季氏篇にある引用語。
勘助、泥木明神にて討ち死にす
味方が苦戦する中、山本勘助は最後のご奉公と、郷の義弘(ごうのよしひろ・鎌倉時代末期、越中国松倉郷の刀工。伝説の刀匠といわれる)三尺五寸の太刀を振るい、一眼で敵をにらみつけ、名のっては斬って落とし、えいえいと声しては突き倒し、前後左右に馬を走らせ、上杉方の北条、本庄の軍勢を向こうに駆け通る。
こうしたところへ、柿崎和泉守景家は、山本と見ると一目散に駆けて来る。「えいえい、はいはい」と混戦して戦ううちに、山本勘助の軍兵はおおかた討たれてしまった。勘助も九か所の傷を受けた。この時、柿崎和泉守の家臣、萩田与三兵衛、吉田喜四郎、河田軍兵衛、坂木磯八らが八方より槍で突きかかり、とうとう勘助を馬から突き落とし、坂木磯八がその首を取った。勘助が討ち死にした場所は、東福寺の泥木明神であった。(南長野運動公園南西端/勘助宮)
勘助の首と胴をつなげた胴合橋
生き残った勘助の郎党たちは、入道殿の首を敵に渡すのは残念と、決死の覚悟で十人ほど踏み込んで戦い、法師首を取り返した。そして元の所へ立ち帰ったが、めいめい持ち帰った首は、どれも顔が血に染まり、相は変わってどれが勘助の首かわからない。
そうこうするうちに、一人が首のない骸(むくろ)を調べて勘助の胴体を見つけて持ってきた。胴に首をつなぎ合わせてみて、ようやく勘助の首がわかった。そこで川の土橋の端に首と胴を一つにして埋葬した。この土橋を「胴合橋(どあいばし)」と名づけた。胴合橋は、水沢より八幡原に行く道筋にある橋である。
勘助を埋葬した所は水沢の川端であった。その後、千曲川の満水によって川筋が狂い、昔の所は今は川中である。寛永の頃、柴の松原(長野市松代町東寺尾松原)に塚を築いて上に少しの石碑があった。勘助塚という。近頃、原半兵衛という甲州流の軍学師が、新たに石碑を柴阿弥陀堂(長野市松代町柴)の庭に建てた。
山本勘助の戒名は「天徳院武山道鬼居士」という。 |